ロスト

大学を卒業してもうずいぶん経つ。自分のなかでは大学のころといまとではそんなに変わりがない、大して時間が経っていない感じがしていたのだけど、そんなことはなかった。もう少ししたら、大学を卒業した年齢の倍の歳になってしまう。今年の冬の終わりはなんだかそのことですごく感傷的な気分になっていた。

もうすぐ、通っていた大学のキャンパスが完全になくなる。通っていたキャンパスはふたつあった。大学生活最初の約1年半メインで通うことになる、一般教養を学ぶキャンパスと、研究室のあるキャンパスだ。一般教養を学んだキャンパスは、約10年前に閉校し、更地になって、いまでは立派な複合施設が建っている。大学の面影はもう全くない。もうすぐなくなるキャンパスは、もうひとつの、研究室があった方だ。

研究室からはいまでも定期的にお知らせなどが届く。4月には、キャンパスの閉校に伴って、キャンパスの周辺を散策しましょうという企画が催される。研究室の集まりにはこれまで顔を出してこなかったけれど、ひさしぶりに行ってみようと思っている。

そういうのも手伝ってか、今年はやけに卒業のシーズンに淋しい気持ちになってしまった。もういいかげん、大学生の延長という歳でもない。仲が良かった友達も、いまどこでなにをしているのかさっぱりわからない。たぶんもう二度と会うこともないひともいると思う。というか、二度と会わないのがほとんどだろう。知らないうちに、勝手にいろいろ失ってしまっている。

できるだけ、なるべく失いたくないみたいな、青臭い気持ちがやっぱりまだどこかにある。じゃあそういう失いたくないものを大切にしてきたんかと言われると、まったくそんなことはないから困る。

老いる

実は父親が1月の中旬から入院していた。今月下旬に退院予定だったのだけど、急遽退院が早まり、明後日には出てくることになった。

母親がひとりだけだとなにかと大変だろうと思って、父親の入院日からできるだけ実家にいるようにした。そんなに深刻な病気ではないのだけど、それでもずっと入院する人間がいると、新しい雑務が増えてしまう。母親の負担が減るようにと思って、意識的に実家にいて、病院にも何度か通ったのだけど、母の負担が減ったのかどうかはわからない。

「実はご主人は癌で……」みたいなドラマチックな展開はなにもなかった。父はポケットWi-Fi借りてこい、急いで持ってこいなどと入院していることを免罪符にしたわがままを発動させ、母がイラっとしていた。「実はご主人は癌で……」みたいなのではなかっただけに、余計にイラっとしたのだと思う。

よく考えたらあと10年もせずに親が70代になる。70代なんてもう老人じゃないか。親が「老人」になることを、今日生まれて初めて具体的に想像した。それは、自分が40代になったり50代になったりするのを想像するよりもげんなりすることだった。

親の年齢を意識したのは、親が30を過ぎたくらいのころだと思う。「33さいっておとなだなあ〜」みたいなことを考えたような気がする。その歳さえも追い越して、僕はいまだに独り身である。僕に子が、できるのかできないのか知らないけれどももしできたら、産まれた時点で子が「おとうさんふわく(不惑)」みたいなことを認識してもおかしくないくらいの歳になっている。

「親が70歳になる」とか具体的に想像したことがなかった。いつかなることは知っていたけど、案外目の前にそれが迫っているとは思っていなかった。

「親が突然死ぬ」のは受け入れられる。そろそろいい歳だし、そういうこともあっても不思議じゃないだろうと思える。ただ、「親が老人になって生きている」というのは、ちょっとまだよくわからない。うちは祖母がどちらもまだまだ健在なので、順番的には親が亡くなるのはまだまだ先のことだ。

気がつけば自分も60代になってたりするんだと思う。この前大学を卒業したばかりだと思ったのに、もう少しでその倍の年齢になってしまう。同じような感じで、この前40代に入ったと思ったのにあっという間に60歳になった、みたいなことも十分ありうる。

自分以外の人間の命で自分の人生を相対的に考えることなんて初めてのことなので若干混乱したのだけど、僕ももうそういう歳になってしまったってことなんだろう。なんだかちょっとがっかりする。

生活をしている

ガスコンロを買い換えた。

これまで使っていたのは、彼女がこの家に引っ越してから買ったというかわいらしい一口のコンロで、最近は不完全燃焼をしていた。このまま使い続けるのは危険だと、点検に来たガス会社のひとから言われた。という話をお正月、彼女のご実家に伺った際に話題に出したら、「これでコンロを買いなさい」とお金をいただいてしまった。ありがたく使わせていただくことにして、ヨドバシカメラに行き、二口のコンロを買った。魚も焼ける。

去年はレンジが突然壊れた。これも彼女のご実家に伺った際に話題に出したら、お金をいただいた。そんなつもりじゃなかったのだけどありがたく使わせていただくことにして、Amazonでいいレンジを買った。冷凍ごはんもほくほくになる。

ちょっと前に、ねこがポットを落として壊した。ポットの話は彼女のご実家ではしなかった。ポットは夏の間はあまり使わないからという理由で、新しいポットを買うのではなく、ティファールのお湯がすぐ沸くやつを買った。

おととしは洗濯機が壊れたので買い換えた。これも彼女のご実家では話題に出さなかった。あと、風呂が壊れたので大家さんに伝えたら、新しいお風呂に変えてもらえた。その前は、下手したら自分たちより年上かもしれないくらいの年季の入った地デジ未対応のブラウン管のテレビが見られなくなったため、棄てた。その後、彼女がご実家から使ってないテレビをもらってきた。我々の生活は彼女のご実家の支援によって成り立っている。

話は前後するけれど、去年の秋、彼女と13年過ごしてきたねこが亡くなった。いま我が家にいるねこは、3年半前に突然家族になった。

彼女と付き合い始めて、あっという間に5年が経ってしまった。この前付き合い始めたばかりのような気がするけど、結構な年月が経っている。あまり物がなかったこの部屋に、ふたりで生活するための物が増えた。家電や家具を買うたびに、このひとと生活をしているんだなあと思う。これからもいろんなものが壊れ、なくなり、いろんなものを買うんだろう。恋愛覚えたての思春期のころのような、恋の刺激的なあの感じはもう、そんなにほしいと思わなくなった。それよりもむしろ、大したことの起こらない生活をこれからももっともっと積み重ねていきたい。

夏が終わっていく

まだ蝉が鳴いている。

むかし、グリがどこからか連れてきた鳩の雛を、動物園に届けに行ったことがある。そのときが確か10月2日で、ここだけ10月なのにまだ蝉が鳴いてると思ってびっくりした記憶がある。近所では、蝉はもう9月の下旬には鳴かなくなっていた。

今年は近所では、たぶん最後の1匹が、相変わらず毎日鳴き声を聞かせてくれて、いつまでも夏が終わらない感じがする。別にいいんだけど。

今年の夏はこれまでの人生のなかでもっとも暑かったと思う。実家に帰ると一晩中クーラーをつけっぱなしで寝た。そんなの生まれて初めてのことだ。こうも暑いと、さっさと夏が終わってほしいと思いながら、1日1日を淡々と、確実に殺していくような感じで過ごすことになり、今年の夏はあまり楽しいイメージがない。

「8月21日は夏の終わりの最初の日」と思いながらこの十数年生きてきたけど、今年の夏はさすがに8月21日も真夏だった。それが不思議なことに8月24日くらいになると、ちょっと涼しい時間なんかもあって、あ、やっぱ夏ってちゃんと終わるんだと思った。

夏は暑すぎれば暑すぎるほど、終わるのが淋しい気持ちになる。あんなに恨みがましかったにも関わらず。蝉がいまだに鳴いていることが、ほんのちょっと救いではある。

グリがあと10日も保てばよいほう、と突然宣言されてからまもなく1か月が経つ。あまりに突然のことで、現実感がなかった。そのとき僕は仕事で実家の方におり、しばらく帰れない予定だったので、彼女から来る連絡だけでしか状況がわからなかった。

グリは以前臭い液体を吐きまくっていた時期があり、その後も結局は元気に過ごしていたので、突然の余命宣告も受け入れられるはずがなかった。結局今回も10日弱でいなくなったりはせず、いまもいっしょに暮らしているけど、身体はあまりに軽く骨っぽくなり、あまり飛んだり跳ねたりしなくなった。余命宣告されたときよりは元気だと思うけど、腎臓がもうあまり機能してないとのことなので、あのころの元気なグリになる見込みはないんだろうと思う。

この1か月弱、頭の片隅にいつも、グリがいなくなったときのイメージがあった。心の準備をしてるんだと思う。あんまり具体的にやりたい類の作業ではないけど。

モカがこのごろストレスを抱えているような気がする。僕たちがグリに多く構うようになったし、おいしいごはんもグリばかりがもらえているからだと思う。それでも、グリのごはんを無理やり奪うようなことは(あまり)せず、グリが食べきれなかった分を食べようとしてくれるし、グリが向こうに行ったら、ちょっと離れたところで様子を見てくれる。前はよく飛びかかっては怒られていたのだけど、いまは(あまり)飛びかからない。いろんなことを我慢してくれているのだろう。夜はベッドに入るとめっちゃ甘えてくる。主に彼女に。

グリのやさしさはモカにもちゃんと引き継がれていて、モカのなかにもグリが生きてるんだなあと思う。生きていって、大切なひとやものを増やしていくのって、弱点を増やしていくようでもあって、なんでこういうことするんだろうと考えたこともあったんだけど、それはある一面でしかない。大切なひとやものが増えると、生活はたのしくなる。そのぶん、リスクとして失ったときの悲しみも受け入れないといけないというだけのことだ。

グリやモカがいて生活がたのしい。そっちのほうをちゃんと見る必要がある。そしてグリやモカがいなくなったらきちんと悲しみたい。でもそっちばかり見るんじゃなくて、いまいるひと、いまあるものの方もちゃんと見られるようになりたい。

今日は夕方から雨が降り始めて、いまもしとしとと降っている。たぶん、あの蝉もう明日は鳴かないんじゃないかな。それをいつまでも忘れないようにしようとするんじゃなくて、なんていうか、秋をきちんと堪能するのが、夏を長持ちさせてくれた蝉に対する返礼のような気がいまはしている。

なにもしていない

年々忙しくなっていってて、気がつけば仕事に忙殺されている感じになってきた。もともと、追われるような仕事じゃないんだこういうのは。もっときちんとお仕事をやって、きちんと個人的なアウトプットをしていく必要がある。インプットも仕事にまつわるものばかりになってて、なんかコンビニの弁当でお腹満たしつつ働いてるみたいな感じになってる。なにかしてるようで、結局なにもしてない。

NKJK

NKJKを読んだ。どこかで記事を読んで気になってたマンガ。Kindleで1巻が99円のセールになってて、1巻読んだら続きが気になってそのまま2巻もポチった。2巻で終わり。

難病に侵された親友を笑わせようとする女子高生の話。NKはナチュラルキラー細胞のNK、JKは女子高生のJK。笑わせてナチュラルキラー細胞を増やさせようとする物語。

笑いと笑えない(面白くない)と「不謹慎」と思う気持ちの収まりが終始悪くて、笑ってしまった自分にどこかしら後ろめたい気持ちを覚えてしまう。不思議な読後感だった。

 

 

将棋と上海

将棋強くなりたいんだけど、どうやったら強くなれるのか見当がつかん。いろんなボードゲームやってわかったのは、自分の数手先までの作戦を考えるのはできるけど、相手の手も含めて読むゲームとなると途端に苦手になる。

ちょっと前に上海というゲームにハマった。麻雀牌を使ったパズルゲームで、牌のペアを作って消していくというもの。これは、ここを消すとここが消せるようになるからこうする、みたいなのを考えるのが面白かった。

将棋が強くなるためには、

  • とりあえず指す
  • 弱いやつとやる
  • 待ったしまくる(読みが苦手なので)
  • 少しずつ相手を強くしていって、たまにしか勝てない相手を見つける
  • 定石を知る

という手順を踏むとよさそう。相手の手を読むおもしろさを早く知りたい。

ヒル

アプリで「ヒル」っていうマンガを一気読みした。朝と夜チケットが4枚ずつもらえるというアプリで、チケット1枚で1話読める。iPhone×2とiPadを駆使して読んだ。

簡単に言うと空き巣みたいなことやって生活してる「ヒル」と呼ばれるひとたちの話。29話(単行本5冊)で終わるのでサクッと読める。ぎっくりでぐったりしてるときに読んだので、ぎっくりの思い出のマンガになりそう。

ヒル 1 (BUNCH COMICS)

 

ぎっくり

なんか腰がつらいなーと思って揉んでたら、ぎっくり腰になったらしい。思ってたんと違う。なんかこうグキッてなるんじゃなくて、揉んでてぎっくりとかなんなの。そういえばむかし、肩自分で揉んだり叩いたりしててぎっくり首になったことあったな。軽めのぎっくり腰みたいだけど、いろいろ地味につらい。

あなたがいるなら

Amazonで購入手続きできたもののいつまでも発送されないコーネリアスの「あなたがいるなら」が昨日から配信されるようになったので、スポチファイで聴いた。結構よかった。「あなたがいるなら」のところがどうしても浅田美代子の「赤い風船」の「あの娘はどこの娘」の部分とカブるけど、結構よかった。あと、Amazonさんから発送のお知らせも来た。やったー!