休むことの効力

去年は一年中忙しかったのだけど、年末年始は人並みに休むことができた。結婚して初のお正月で、例年より多めに親戚の挨拶をすることになった。僕があまり親戚づきあいを好まないので、これまではうちの実家や祖母への挨拶を避けていたのだ。実家には仕事の都合で頻繁に帰るし。ただ、結婚すると「妻の立つ瀬」というものもあるので、今年はそのへん丁寧にしておくことにした。結婚生活初年度だしね。ということで、例年元日から2日にかけて妻の実家に帰っていたのが、元日にうちの両親&祖母×2への挨拶まわりとなった。妻の実家には、3〜4日に行った。

ふと妻が「モカ(ねこ)で回文をつくろう」と言い出し、「モカも」「モカかも」「モカもかも」から始まる回文づくりが始まった。それが、妻の実家滞在中、なぜか屁にまつわる回文が多くでき、2時間くらい布団で笑い転げていた。今年の年末年始はよく笑った。

今日から本格的な仕事始めで、それも出勤しなければならないタイプの仕事だったので、まだひとが少ない事務所に行ったのだけど、今日は非常に集中して仕事ができた。年始にブックオフで買った「図解 モチベーション大百科」という本が早速役に立った。よくあるハウツー本だろうと思ってあまり期待してなかったんだけど、これがことのほかよかった。

だいたい見開きか、多くても4ページくらいでモチベーションを上げる方法が書いてあって、すぐに実践できるものも多い。印象に残ってるものとしては、「ごほうびは2か月(8週間)後に設定しておくと、モチベーション保てるぜ」というもの。ごほうびのような消費型のインセンティブの効力は、せいぜい8週間くらいしかないそうです。「おいしいごちそう食べたから、これからがんばるぞ!」と思っても、8週間後には「もう無理」となるとのこと。ということで、2か月おきにごほうびを用意しておくと、効率よくモチベーションを保てるそうです。なので俺は3月にごほうびを用意することにしたぞ。iPad Proを買う。買うぞ。まずは最初のごほうびに向けてがんばる。

あと、やっぱ「やる気」とか「MP」みたいなものは確かに存在してて、この本では「自制心」という言葉で説明されているのだけど、自制心は1日が進むにつれて消耗されるものらしい。寝たら回復するんだけど、毎日必ず100%回復するわけじゃない。スケジュールを詰めすぎると、100%まで回復しないままやっていくことになり、無理が発生しますよ気をつけましょうねみたいなことが書いてある。

それでなんだけど、この年末年始、妻とたくさん笑ったのがよかったみたいで、この「自制心」が100%ちょっと超えてるかもくらいに回復していたのを感じた。仕事がサクサクこなせて、こりゃいいやと思った。今後も「1日働いて1週間休むスタイル」でやっていきたいんだけど、さすがにそれは無理ですよね……。まあそれは無理でも、今日「休むことの効力」を身をもって実感できたのはとてもよかった。

去年は自制心が「よくて80%くらい」までしか回復しないままで、1年やってきたような気がする。今年はもうそういう「多忙っぽさ」に身を置くのはやめよう……。効率が悪い……。あと、妻とできるだけ笑って過ごしたい。そのためにも、実家じゃなくて妻がいる家に帰りたい。なにもかもいいとこ取りできるような、精神的なたくましさを身に付けたい。できるだけ図々しくなく。

図解 モチベーション大百科

図解 モチベーション大百科

 

シンプル

年々、気づきがシンプルになっていく。シンプルすぎて、こんなことに気づくのに10~15年もかかったのかよとよく思う。たぶん、若いころは現状を一発で変えてくれる突飛なアイデアの存在を信じていて、そんなものはないという現実を受け入れられるくらいに老けただけなんだろう。

せっかく歳を取っていくのだから、年々なるべくうまく生きていけるようになりたい。世渡り上手になりたいというのではなくて、自分に心地よい方向に行けるようになりたい。仕事をうまいこと捌き、お金に反映させ、その上で楽しいことをやる時間を増やしたい。余計なしがらみをできるだけほどいていって、シンプルに生きていけるようになりたい。

今年聴いた曲

今年もあっという間に終わろうとしている。今年聴いた曲をまとめておきます。

その線は水平線/くるり


くるり - その線は水平線

今年いちばん聴いた曲かも。シンプルにいい曲。くるりシューゲイザーなんじゃないかなと思ったんだけど、そんなこと言ってるひとほかに見かけたことがないな。くるりはシングル曲めちゃくちゃいいのに、ここ2枚のアルバムがあんまりいいと思えなかった……。

RUN/tofubeats


tofubeats -「RUN」

最近のtofubeats、少し暗いというか、メジャーデビューしてからの明るいパーティー感が減ってきた気がする。tofubeatsの曲はもともと明るさのなかにもやや陰があるのがよさだったと思っているので、陰の部分をメジャーで前面に出しても大丈夫な段階になったんだなあ……と感慨深い。次のアルバムでは明るいのと陰があるのうまいこと混ざってほしい。

BEAT/奥田民生


【#7-6:ボーカルREC】奥田民生「カンタンカンタビレ~BEAT編~」


【#7-4:リードギターREC】奥田民生「カンタンカンタビレ~BEAT編~」

木村カエラに提供した曲をセルフカバーしたもの。最近奥田民生は「カンタンカンタビレ」という企画でひとり多重録音をしていて、めちゃくちゃあっさりといろんな楽器を弾きこなす姿をYouTubeで配信している。「BEAT」はもともとめちゃくちゃ好きだったので、このセルフカバーはうれしかった。

Stand By You/Official髭男dism


Official髭男dism - Stand By You[Official Video]

正直、ドラマの主題歌にもなっていた「ノーダウト」に似てて、「似とるやんけ」感が強いんだけど、なんかめちゃくちゃエンドレスリピートで聴いてしまった。

roki store/ゆnovation

 確かTwitterでゆnovationさんが「roki store」を鍵盤ハーモニカで演奏してる動画上げてたと思うんだけど、それ見て一発で好きになってしまった。鍵盤ハーモニカでこんなにたのしい音楽が作れるとは……。

Spotifyが日本でもサービス開始したときからプレミアムプランを契約してるんだけど、今年はShazamと連携して、Shazamで拾った曲を自動的にプレイリストに入れてくれるようになったのがとてもよかった。街で拾った気になる曲が手軽に聴けるようになったの自体はいいことだと思うけど、もう「CD買って家に帰るまで聴けない」という体験はあんまりできないんだと思うと切ない。音楽の体験がだんだんインスタントになっている。

わかりやすく書きたい

仕事柄、ものを書くことが多い。メール、PR文、アナウンス原稿、ニュース記事などなど。子どもの頃から書くことに苦手意識がなく、むしろどちらかというと得意と思っていたこともあって、文章を書くのは苦痛ではなかった。

最近、文章の書き方についての本を貪るように読んでいる。無駄づくりで有名な藤原麻里菜さんの著書『無駄なことを続けるために』を読んで、感銘を受けたのが直接的なきっかけになった。藤原麻里菜さんの文章は、驚くほどわかりやすい。無駄づくりをしている割には、文章に悪い無駄がない。文章力の高さに、正直かなりびっくりした。

著書のなかで藤原麻里菜さんは、自分の文章力を磨くために参考にした書籍を2冊挙げている。好きなひとの影響を受けやすい僕は、その書籍を即Amazonウィッシュリストに登録。大きめの書店に行ったときに立ち読みして、買うかどうかを決めた(結果、1冊はなんか難しくて買ってない)。簡単そうな方だけ買って読み、知っていること、これまでの経験で自力で身につけてきたこと、身につけてはいたけどあまり自覚的にできていなかったことなどを確認できた。

それから、電子書籍でセールになっていた『文章を整える技術』を購入、推敲について学んだ。文章に苦手意識がなく、むしろ得意と思っていたことが仇となって、これまで推敲をあまり真剣にしてこなかった。自分の文章が、後から読み返すと拙く感じられた経験が幾度となくあることを思い出して反省した。

そして昨日、Twitterかブログかでどなたかがお勧めしていた『いますぐ書け、の文章法』を購入、これがめちゃくちゃおもしろかった。おもしろかったけど、誰がお勧めしていたのかすっかり忘れてしまった。すみません。あなたのお勧め、確かに読みました。そして、読めてとてもよかったです。お勧めしてくださってありがとうございました。

仕事で毎日のように他人の書いた文章を校正しており、似たような間違いを何度も訂正している。「なぜ、フォーマットやルールを決めてもそれを守れないのか」「フォーマットを作っても、見てないのならもうお手上げではないのか」という難問にぶつかっていたのだけど、その難問が具体的にほどけていった。結局、読むひとのことをどれだけ考えられるか、想定できるか、具体的にイメージできるかに尽きる。思うままに殴り書いて推敲をしないのは、ひとりよがりでしかないということに、遅まきながら気づいた。もう自分の気持ちよさのためだけに文章を書くような年齢でもないし、これからはできるだけわかりやすく、読んでくれるひとのことを考えた文章を書きたい。ということでリハビリと練習と鍛錬とを兼ねて、またなるべく多くの文章を、自発的に書いていこうと思った次第でした。なるべくやっていきたいですね。

無駄なことを続けるために - ほどほどに暮らせる稼ぎ方 - (ヨシモトブックス)

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文章を整える技術 書いたあとのひと手間でぜんぜん違う

文章を整える技術 書いたあとのひと手間でぜんぜん違う

 
いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)

いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)

 

感情のシェア

カメラを止めるな!」は元から見たかったのだけど、最近の、猫も杓子も「観に行った方がいい」と言い出した状況に、少しげんなりしている。

猫も杓子も「観に行った方がいい」と言い出した結果、上映館の大幅な拡大につながったので、そのことを否定するつもりはないんだけど、もうわかったから、観に行った方がいいと勧めたくなるのはわかったから、ほぼ日のひととかまで「いい」って言ってるのもわかったから、もう「いい」って言うのいいんじゃないか? という気持ちになってきた。

映画館で観たいので結果的になんと言われようと観に行くと思うのだけど、なんかこう、こういうムーブメントになっていくの、今までそこからどれだけのものが一過性の消費をなされ、スポイルされていったかを考えると、この盛り上がりも同じ轍を踏んでいくんじゃないのかというナーバスな気持ちになってしまう。

好きなものを好きというのも、嫌いなものを嫌いというのも自由だと思う。けどいいかげん、そういうので盛り上がりを作って、猫も杓子も観に行ってみようぜみたいなことになって、それがまたシェアされて、結局「インターネットでみんながいいと言っているものをみんなが観て/聴いて/体験して」「同じことを感じてしまってる」ことになってる状況、多様性とかなんとか言いながらやっぱりみんな同じものに触れてたいんじゃんねっていう感じがしてつらいと思ってしまう人間もいるんですよね、ここに。だからといってまあなんということもないんだけど。

上田慎一郎監督は「彼女の告白ランキング」という短編を観たときに一発でファンになってしまったので、この快進撃はすごく喜ばしいことだと思うし、ご自身が身を粉にしながらのプロモーションをやっておられるのも知っているので、本当によかったですねと思っています。

内田けんじ監督と上田慎一郎監督には、「頭どうなってるの?」という映画をずっとずっと創り続けてほしいです。

損の補填

仕事がとにかく忙しい。いろんなところに行ったり、付き合いで飲みの場に出ないといけなかったり、ファミレスなんかで打ち合わせがあったりするので、「仕事をするためにお金を使う」という状況になっている。お金を使ってお金を稼ぐの、不毛という感じになってくる。単に損の補填では。

そういう状況なので、心がすり減ってくる。いわゆるMPが減っていってる状態。回復するために、食べたいもの食べたりマンガをバカ買いしたりして、どんどんお金が出ていく。損の補填の連鎖みたいになってて、すごく不毛な気がする。

ロスト

大学を卒業してもうずいぶん経つ。自分のなかでは大学のころといまとではそんなに変わりがない、大して時間が経っていない感じがしていたのだけど、そんなことはなかった。もう少ししたら、大学を卒業した年齢の倍の歳になってしまう。今年の冬の終わりはなんだかそのことですごく感傷的な気分になっていた。

もうすぐ、通っていた大学のキャンパスが完全になくなる。通っていたキャンパスはふたつあった。大学生活最初の約1年半メインで通うことになる、一般教養を学ぶキャンパスと、研究室のあるキャンパスだ。一般教養を学んだキャンパスは、約10年前に閉校し、更地になって、いまでは立派な複合施設が建っている。大学の面影はもう全くない。もうすぐなくなるキャンパスは、もうひとつの、研究室があった方だ。

研究室からはいまでも定期的にお知らせなどが届く。4月には、キャンパスの閉校に伴って、キャンパスの周辺を散策しましょうという企画が催される。研究室の集まりにはこれまで顔を出してこなかったけれど、ひさしぶりに行ってみようと思っている。

そういうのも手伝ってか、今年はやけに卒業のシーズンに淋しい気持ちになってしまった。もういいかげん、大学生の延長という歳でもない。仲が良かった友達も、いまどこでなにをしているのかさっぱりわからない。たぶんもう二度と会うこともないひともいると思う。というか、二度と会わないのがほとんどだろう。知らないうちに、勝手にいろいろ失ってしまっている。

できるだけ、なるべく失いたくないみたいな、青臭い気持ちがやっぱりまだどこかにある。じゃあそういう失いたくないものを大切にしてきたんかと言われると、まったくそんなことはないから困る。

老いる

実は父親が1月の中旬から入院していた。今月下旬に退院予定だったのだけど、急遽退院が早まり、明後日には出てくることになった。

母親がひとりだけだとなにかと大変だろうと思って、父親の入院日からできるだけ実家にいるようにした。そんなに深刻な病気ではないのだけど、それでもずっと入院する人間がいると、新しい雑務が増えてしまう。母親の負担が減るようにと思って、意識的に実家にいて、病院にも何度か通ったのだけど、母の負担が減ったのかどうかはわからない。

「実はご主人は癌で……」みたいなドラマチックな展開はなにもなかった。父はポケットWi-Fi借りてこい、急いで持ってこいなどと入院していることを免罪符にしたわがままを発動させ、母がイラっとしていた。「実はご主人は癌で……」みたいなのではなかっただけに、余計にイラっとしたのだと思う。

よく考えたらあと10年もせずに親が70代になる。70代なんてもう老人じゃないか。親が「老人」になることを、今日生まれて初めて具体的に想像した。それは、自分が40代になったり50代になったりするのを想像するよりもげんなりすることだった。

親の年齢を意識したのは、親が30を過ぎたくらいのころだと思う。「33さいっておとなだなあ〜」みたいなことを考えたような気がする。その歳さえも追い越して、僕はいまだに独り身である。僕に子が、できるのかできないのか知らないけれどももしできたら、産まれた時点で子が「おとうさんふわく(不惑)」みたいなことを認識してもおかしくないくらいの歳になっている。

「親が70歳になる」とか具体的に想像したことがなかった。いつかなることは知っていたけど、案外目の前にそれが迫っているとは思っていなかった。

「親が突然死ぬ」のは受け入れられる。そろそろいい歳だし、そういうこともあっても不思議じゃないだろうと思える。ただ、「親が老人になって生きている」というのは、ちょっとまだよくわからない。うちは祖母がどちらもまだまだ健在なので、順番的には親が亡くなるのはまだまだ先のことだ。

気がつけば自分も60代になってたりするんだと思う。この前大学を卒業したばかりだと思ったのに、もう少しでその倍の年齢になってしまう。同じような感じで、この前40代に入ったと思ったのにあっという間に60歳になった、みたいなことも十分ありうる。

自分以外の人間の命で自分の人生を相対的に考えることなんて初めてのことなので若干混乱したのだけど、僕ももうそういう歳になってしまったってことなんだろう。なんだかちょっとがっかりする。

生活をしている

ガスコンロを買い換えた。

これまで使っていたのは、彼女がこの家に引っ越してから買ったというかわいらしい一口のコンロで、最近は不完全燃焼をしていた。このまま使い続けるのは危険だと、点検に来たガス会社のひとから言われた。という話をお正月、彼女のご実家に伺った際に話題に出したら、「これでコンロを買いなさい」とお金をいただいてしまった。ありがたく使わせていただくことにして、ヨドバシカメラに行き、二口のコンロを買った。魚も焼ける。

去年はレンジが突然壊れた。これも彼女のご実家に伺った際に話題に出したら、お金をいただいた。そんなつもりじゃなかったのだけどありがたく使わせていただくことにして、Amazonでいいレンジを買った。冷凍ごはんもほくほくになる。

ちょっと前に、ねこがポットを落として壊した。ポットの話は彼女のご実家ではしなかった。ポットは夏の間はあまり使わないからという理由で、新しいポットを買うのではなく、ティファールのお湯がすぐ沸くやつを買った。

おととしは洗濯機が壊れたので買い換えた。これも彼女のご実家では話題に出さなかった。あと、風呂が壊れたので大家さんに伝えたら、新しいお風呂に変えてもらえた。その前は、下手したら自分たちより年上かもしれないくらいの年季の入った地デジ未対応のブラウン管のテレビが見られなくなったため、棄てた。その後、彼女がご実家から使ってないテレビをもらってきた。我々の生活は彼女のご実家の支援によって成り立っている。

話は前後するけれど、去年の秋、彼女と13年過ごしてきたねこが亡くなった。いま我が家にいるねこは、3年半前に突然家族になった。

彼女と付き合い始めて、あっという間に5年が経ってしまった。この前付き合い始めたばかりのような気がするけど、結構な年月が経っている。あまり物がなかったこの部屋に、ふたりで生活するための物が増えた。家電や家具を買うたびに、このひとと生活をしているんだなあと思う。これからもいろんなものが壊れ、なくなり、いろんなものを買うんだろう。恋愛覚えたての思春期のころのような、恋の刺激的なあの感じはもう、そんなにほしいと思わなくなった。それよりもむしろ、大したことの起こらない生活をこれからももっともっと積み重ねていきたい。

夏が終わっていく

まだ蝉が鳴いている。

むかし、グリがどこからか連れてきた鳩の雛を、動物園に届けに行ったことがある。そのときが確か10月2日で、ここだけ10月なのにまだ蝉が鳴いてると思ってびっくりした記憶がある。近所では、蝉はもう9月の下旬には鳴かなくなっていた。

今年は近所では、たぶん最後の1匹が、相変わらず毎日鳴き声を聞かせてくれて、いつまでも夏が終わらない感じがする。別にいいんだけど。

今年の夏はこれまでの人生のなかでもっとも暑かったと思う。実家に帰ると一晩中クーラーをつけっぱなしで寝た。そんなの生まれて初めてのことだ。こうも暑いと、さっさと夏が終わってほしいと思いながら、1日1日を淡々と、確実に殺していくような感じで過ごすことになり、今年の夏はあまり楽しいイメージがない。

「8月21日は夏の終わりの最初の日」と思いながらこの十数年生きてきたけど、今年の夏はさすがに8月21日も真夏だった。それが不思議なことに8月24日くらいになると、ちょっと涼しい時間なんかもあって、あ、やっぱ夏ってちゃんと終わるんだと思った。

夏は暑すぎれば暑すぎるほど、終わるのが淋しい気持ちになる。あんなに恨みがましかったにも関わらず。蝉がいまだに鳴いていることが、ほんのちょっと救いではある。

グリがあと10日も保てばよいほう、と突然宣言されてからまもなく1か月が経つ。あまりに突然のことで、現実感がなかった。そのとき僕は仕事で実家の方におり、しばらく帰れない予定だったので、彼女から来る連絡だけでしか状況がわからなかった。

グリは以前臭い液体を吐きまくっていた時期があり、その後も結局は元気に過ごしていたので、突然の余命宣告も受け入れられるはずがなかった。結局今回も10日弱でいなくなったりはせず、いまもいっしょに暮らしているけど、身体はあまりに軽く骨っぽくなり、あまり飛んだり跳ねたりしなくなった。余命宣告されたときよりは元気だと思うけど、腎臓がもうあまり機能してないとのことなので、あのころの元気なグリになる見込みはないんだろうと思う。

この1か月弱、頭の片隅にいつも、グリがいなくなったときのイメージがあった。心の準備をしてるんだと思う。あんまり具体的にやりたい類の作業ではないけど。

モカがこのごろストレスを抱えているような気がする。僕たちがグリに多く構うようになったし、おいしいごはんもグリばかりがもらえているからだと思う。それでも、グリのごはんを無理やり奪うようなことは(あまり)せず、グリが食べきれなかった分を食べようとしてくれるし、グリが向こうに行ったら、ちょっと離れたところで様子を見てくれる。前はよく飛びかかっては怒られていたのだけど、いまは(あまり)飛びかからない。いろんなことを我慢してくれているのだろう。夜はベッドに入るとめっちゃ甘えてくる。主に彼女に。

グリのやさしさはモカにもちゃんと引き継がれていて、モカのなかにもグリが生きてるんだなあと思う。生きていって、大切なひとやものを増やしていくのって、弱点を増やしていくようでもあって、なんでこういうことするんだろうと考えたこともあったんだけど、それはある一面でしかない。大切なひとやものが増えると、生活はたのしくなる。そのぶん、リスクとして失ったときの悲しみも受け入れないといけないというだけのことだ。

グリやモカがいて生活がたのしい。そっちのほうをちゃんと見る必要がある。そしてグリやモカがいなくなったらきちんと悲しみたい。でもそっちばかり見るんじゃなくて、いまいるひと、いまあるものの方もちゃんと見られるようになりたい。

今日は夕方から雨が降り始めて、いまもしとしとと降っている。たぶん、あの蝉もう明日は鳴かないんじゃないかな。それをいつまでも忘れないようにしようとするんじゃなくて、なんていうか、秋をきちんと堪能するのが、夏を長持ちさせてくれた蝉に対する返礼のような気がいまはしている。