大トロ>世界2位

市場に行って新鮮な寿司をたらふく食べた。「寿司を食べる日」と決めていたので金銭感覚がバカになっており、400円の大トロも200円の大トロも食べた。400円の大トロの方がより大トロのような感じがした。

その後、たまたま路上でやっていた大道芸を見た。終わった後、お気持ちを形で表してほしいとのことだったので、持っていた硬貨を入れようと思って財布を見たら300円しかなかった。300円を袋に入れた。世界2位になったこともある方らしいのだけど、そのパフォーマンスへの評価が大トロ1貫よりも安く(200円の方の大トロよりは100円高いけど)、資本主義は難しいなって感じた。

黙ろうかな

とりあえずここのところみんな小泉進次郎を叩いていいことになっていて、相手が大臣であれば強い言葉でボロクソ言ってもよいようだ。確かに氏は大臣としての資質や職責を問われるような発言も多い。それに対して怒りを表明する気持ちもわかる。げんなりするのは、怒りじゃなくてバカにするニュアンスが見て取れることだ。いくつかの条件が整ったとき、ひとはひとをバカにしてもよい。炎上するようなことをした人間は、全力で叩いてもよい。プライバシーを侵害してもよい。インターネットで日々見せられてるのは、そういう免罪符をもらった(と勘違いした)悪意だ。

いじめはいじめられる方にも原因がある、だからいじめていいんだみたいなものを、毎日毎日毎日毎日インターネットで目にすることになって、ああもうこれ黙っとくのが個人的には正しい態度だなと思うようになった。もう何も言いたくないし、何も聞きたくない、見たくない。

ラジオ

最近ラジオを聞くようになった。radikoは非常に便利。

ぼーっとインターネットを見るともなく見てしまうのよりももっと「意味」から切り離されて、いい。あと、よくできたラジオのCMは非常によくできてて、いい。究極の引き算の美学がある。

意味のないインターネットが好きだったんだけど、インターネットはもうどんなものにも意味がありすぎて、結局アナログな体験に戻りそうな気がする。みたいなことをインターネットに書く意味……。

映画の日

少し前から、毎月1日に映画を観に行っている。今日は「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」と「おっさんずラブ」を観た。

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」は、最終的に「タランティーノ観たな!」と思えた作品だった。「おっさんずラブ」は安定のおもしろさだった。

もうすぐthe pillowsの30周年記念で作られた映画が上映される。映画館にチラシがあった。ピロウズ好きだった僕としては、結構複雑な気持ち。ピロウズは30周年で「ピロウズいてよかった」みたいな映画を作るようなバンドじゃなかったはずなんだよ……。そういう思いはさ、個々で持っとけばいいじゃないですか。「高校のころ俺が救われたピロウズの音楽」っていうのは俺固有のもので、別に誰かと共有されることで云々とかいう類のものじゃないんですよ。わかりますか。

日記から始める

夏休みの最終日。ほんとの最終日は明日なんだろうけど、なんかこう、今日で区切り、という感じがする。

このところずっと、くすぶってる感じがある。苛立ちはあんまりない。本をまあまあ読んでいる。ギターの練習が楽しい。ギターに限らず、修練が楽しい。仕事はずっとストレスの種でしかない。ストレスの種でカツカツやっていっている。

最近空前のオードリーブームが来ている。若林さん(一生さんづけします)の「社会人大学人見知り学部 卒業見込」をブックオフで200円で買って読み、非常に感銘を受けた。中古で買ったのを申し訳なく思い、改めて書店で買いなおした。若林さんが解説を書いているというので、南キャンの山里さん(一生さんづけします)の「天才はあきらめた」もいっしょに買って読んだ。一気読みした。

山里さん、テレビではクズキャラが際立っているけど、めちゃくちゃ努力のひとだ。努力を苦とも思わないひとを天才と呼ぶのであれば、山里さんは天才の部類に入ると思う。ビジネス書として読んでも非常に有益な本だと思う。最後にはちょっと泣いてしまった。

人生ももうまもなく折り返し地点に差し掛かる。いまだに経験したことがないことばかりだ。ただ、あまりわくわくしないのが問題で、大体のことがなんとなくでやっていける。ここ数年であまり感動しなくなったことに気付く。こういう生き方はあんまりよくないのではないだろうかと思うようになった。とは言えなにをどうすればいいのかよくわからない。いつの間に感動を失ったのかもわからない。わかったところでどうしようもない。

というわけでくすぶっている。このままではダメだなあと思いながらも、なにをどうすればいいのかわからず、とりあえず本を読む量がほんの少しだけ増えている。思いきり泣いたり笑ったりしたい。

天才はあきらめた (朝日文庫)

天才はあきらめた (朝日文庫)

 

いかれた慕情

僕のマリさんの『いかれた慕情』を読んだ。

読み終えて、ああ、もう俺全然本気で生きてないな、ということに気付いた。たぶんもう本気の出し方も忘れてる。本気出さなくてもやっていける実力がついて、生きていくのが楽になった。本気じゃないとやっていけなかった時代はとっくに過ぎてる。

僕と、僕のマリさんとはおそらく10くらい年齢が離れている。このひとは10年後も本気で生きてるだろうか。本気で生きてるといいな。俺はもう無理だったから。ひとつひとつ諦めてきたから。でも諦めるって全然悪いことじゃなくて、めちゃくちゃ肩の力抜けて、たのしいんだよね。「身を焦がすような恋」とか「会社の存続をかけた逆転劇」とかなくても、昨日と似たような今日を過ごしたとしても、そのおもしろがり方がわかってきたんだよね。6年くらい前に妻と出会って、妻とねこと穏やかに暮らすだけで、すっごい満足。こないだ無印でポリプロピレンの収納ケース買ったのが届いて、冬服しまったんだけど、もうそういうので大満足。何者かになりたかったこともあったけど、いまはもういいかな。いまのこの穏やか〜〜な生活がめちゃくちゃ気に入ってて、ずーっと続いてほしい。以前じゃ考えられなかったけど、長生きもしたくなった。こういう生活が続けられるなら、1秒でも長く生きていたい。

みたいなことを本気で思う大人になっていたことに気付いた。この本を読んで、そういうことに自覚できたのがよかった。人生が5つくらい並行してやっていけるんだったら、そのうちのひとつくらいはしのぎを削って生きる世界に身を置くのもやってみたいけど、ひとつしか選べないもんね。なんかそんな並行世界の、10くらい若い、性別も違う自分が、そっちでがんばってんだねっていう気持ちになった。不思議な感じ。

かっこいいドリル

「ドリルを買いに来たひとが欲しいのは、ドリルではなくて穴だ」という言葉がある。顧客は本当は問題を解決したいだけであって、その手段はなんだっていい、みたいな意味なんだけど、実際、仕事においてはドリルが欲しくてドリル買いに来たみたいな案件が結構ある。特にデザイン仕事で実感する。

とにかく「こういうチラシを作ってほしい」みたいなことばかり言われて、それ、ターゲットのこと考えたらこのデザインじゃないんじゃないかなあ……と思っても話が通じない。やりとりを重ねるうちに、あ、これお客さん呼びたいんじゃなくて、チラシが納品されたら満足するやつだ、と気付く。こういう案件は、途中から心を殺してクライアントが満足するものを作ることになる。

この仕組みに自覚的になったのは、つい最近のことだ。たぶん、自分でも無自覚にこういうことをやってるんだろうと思う。最近お気に入りの書店で、体系立てて整理された本棚を眺めながら考えた。なにかが欲しくて本を読みたいと思ってたはずなのに、気がつけばその場しのぎの本を買って、結局読まずに何か月も積んだままになっている。そもそも、なにが欲しいのかすらわかっていない。ただ本を読めばなにかが変わりそうな気がする。ていうか読まなくても買えばそれだけで事態が少し好転するんじゃないか、とか思ったりする。事態? 事態とは?

そういった形での本との出会いを否定するわけではないけど、なんだかそれって本をファストフード的に扱ってる感じがして、なんだかな、そうじゃないんだよなとも思う。

相変わらずなにが欲しいのかわかってなくて、それをわかるための本を読みたい。常に迷っているのが、「とりあえず嘘じゃない態度」のような気がする。

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

 

でも、こぼれた

「でも、こぼれた」を読んだ。

6名の著者の頭文字を取ってつけられたというこのタイトルが、見事に6篇の短編群を貫くテーマになっていたと思う。「普通」に生きたいと思って、普通に生きようと努力した、でも、そこからこぼれてしまったひとたちの日常の断片。いずれの作品も、そのこぼれてしまったという現実に、自分なりに折り合いをつけた(つけようとする)話だと思った。

「普通」は時に、ぬるま湯のような温度のくせに我々をしつこく絡め取ろうとする呪いにもなる。そこからはずれてしまう自分を自覚するのはこわい。もう取り返しがつかないところに行くまで、その事実から目を背けていたい。6名の著者の方々はいずれも、そこから目を背けず、自分なりの折り合いのつけ方を獲得している(しつつある)ように感じた。

なかでも僕のマリさんの『健忘ネオユニバース』は、最初から最後までやさしさを感じて好きだった。おそらく著者のみなさん、何らかの形で「表現」することで呼吸を取り戻せる方々なのではないかと思うけど、『健忘ネオユニバース』は「書くこと」で呼吸を取り戻す、その真っ只中を切り取った作品だと思った。「表現」は本来、受け手を必要とする。渾身の「表現」が、受け手としあわせな出会いをしたとき、呼吸器にわっと空気が入ってくるのを感じる。その瞬間が丁寧に描かれていた。

僕は芸術って「肯定してくれるもの」だと思っているのだけど、そういった意味では、「でも、こぼれた」は芸術だと思う。「普通」とか、そこからこぼれたとか、そういったすべてを肯定してくれる。とてもいい本でした。製作から販売まで、この本が生まれて手元に届く過程に関わったすべてのみなさん、ありがとうございました。

ニニちゃん

生まれ変わりを信じている(ただし自分以外)。

祖父は晩年、いきなり犬を飼いだした。祖父が亡くなった後も犬だけは数年生きていた。特に根拠はなかったけど、祖父はこの犬に乗り移ったと信じていた(その犬も亡くなりましたが……)。今ごろ祖父も犬もなにかに生まれ変わっていることでしょう。

2年前、愛猫のグリが亡くなった。悲しかったけど、生まれ変わってまた僕たちのところに来てくれるんじゃないかと、これまた根拠もなく信じていた。ねこの姿かたちをしていないかもしれないけど、グリはまたうちの子になってくれるはずだと思っていた。

半年くらい前、架空のグリの生まれ変わりに「ニニ」という名前をつけた。グリの生まれ変わりというくらいだから、くろねこのおんなのこでかぎしっぽのはず。のらねこが子ねこを産む季節になると、近所でニニちゃんを探すともなく探した。妻はよく「もうニニちゃん生まれたかな?」と言う。グリ(ともう1ぴきのモカ)の誕生日が55日で、どうせ生まれ変わるんならこのあたりで産まれるんじゃないかという気がしていたからだ。

最近、うちの裏の駐車場でニニちゃんを見かけた。生後12か月くらいで、くろねこでかぎしっぽだった。おんなのこかどうかはわからない。声がきたない。グリも声はきれいではなかった(そこがかわいかったんだけど)。

ニニちゃんのすぐ近くに母ねこがおり、いつもニニちゃんを見守っていた。夜中、母ねことニニちゃんがとことこと移動するのを見た。あのニニちゃんはうちに来るニニちゃんではないけど、おかあさんとしあわせに暮らしてほしいと願っている。あと、おかあさん、ニニちゃんの面倒見られなくなったらいつでも遠慮なく僕たちに相談してきてくれていいですよとも思っている。それはそれとして、いまでもグリを愛している。

将棋やってる

将棋が苦手。相手がいるゲームで「読み」を利かせるのが壊滅的に苦手で、なにをどうすればいいのかが全くわからない。そもそも「読む」っていうのがどういうことなのかわからない。と思ってたけど、ここ3週間くらい毎日アプリで将棋を指して、入門の本とかわからないなりに読んだりしているうちに、ちょっと上達したかもと思えるようになってきた。

自分が指したい手をちょっと我慢してみて、相手が指したいと思っているであろう手をイメージする。それに先回りして対処する。それが「読み」かあ~と気づいた。

3週間将棋を指して思ったのは、「読み」って「思いやり」に似てるな、ということ。まあ思いやっても最終的には王を倒すわけですが……。「読む」ためには経験や知識があると便利。なのでたくさん場数を踏むのが大事。失敗を分析するのが超大事。

将棋が強くなる上で身についていくであろうメンタリティーで、相手を思いやる力を向上させ、先回りして相手の寝首をかけるようになりたい。毎回王手かけて生きていきたい。