夏が終わっていく

まだ蝉が鳴いている。

むかし、グリがどこからか連れてきた鳩の雛を、動物園に届けに行ったことがある。そのときが確か10月2日で、ここだけ10月なのにまだ蝉が鳴いてると思ってびっくりした記憶がある。近所では、蝉はもう9月の下旬には鳴かなくなっていた。

今年は近所では、たぶん最後の1匹が、相変わらず毎日鳴き声を聞かせてくれて、いつまでも夏が終わらない感じがする。別にいいんだけど。

今年の夏はこれまでの人生のなかでもっとも暑かったと思う。実家に帰ると一晩中クーラーをつけっぱなしで寝た。そんなの生まれて初めてのことだ。こうも暑いと、さっさと夏が終わってほしいと思いながら、1日1日を淡々と、確実に殺していくような感じで過ごすことになり、今年の夏はあまり楽しいイメージがない。

「8月21日は夏の終わりの最初の日」と思いながらこの十数年生きてきたけど、今年の夏はさすがに8月21日も真夏だった。それが不思議なことに8月24日くらいになると、ちょっと涼しい時間なんかもあって、あ、やっぱ夏ってちゃんと終わるんだと思った。

夏は暑すぎれば暑すぎるほど、終わるのが淋しい気持ちになる。あんなに恨みがましかったにも関わらず。蝉がいまだに鳴いていることが、ほんのちょっと救いではある。

グリがあと10日も保てばよいほう、と突然宣言されてからまもなく1か月が経つ。あまりに突然のことで、現実感がなかった。そのとき僕は仕事で実家の方におり、しばらく帰れない予定だったので、彼女から来る連絡だけでしか状況がわからなかった。

グリは以前臭い液体を吐きまくっていた時期があり、その後も結局は元気に過ごしていたので、突然の余命宣告も受け入れられるはずがなかった。結局今回も10日弱でいなくなったりはせず、いまもいっしょに暮らしているけど、身体はあまりに軽く骨っぽくなり、あまり飛んだり跳ねたりしなくなった。余命宣告されたときよりは元気だと思うけど、腎臓がもうあまり機能してないとのことなので、あのころの元気なグリになる見込みはないんだろうと思う。

この1か月弱、頭の片隅にいつも、グリがいなくなったときのイメージがあった。心の準備をしてるんだと思う。あんまり具体的にやりたい類の作業ではないけど。

モカがこのごろストレスを抱えているような気がする。僕たちがグリに多く構うようになったし、おいしいごはんもグリばかりがもらえているからだと思う。それでも、グリのごはんを無理やり奪うようなことは(あまり)せず、グリが食べきれなかった分を食べようとしてくれるし、グリが向こうに行ったら、ちょっと離れたところで様子を見てくれる。前はよく飛びかかっては怒られていたのだけど、いまは(あまり)飛びかからない。いろんなことを我慢してくれているのだろう。夜はベッドに入るとめっちゃ甘えてくる。主に彼女に。

グリのやさしさはモカにもちゃんと引き継がれていて、モカのなかにもグリが生きてるんだなあと思う。生きていって、大切なひとやものを増やしていくのって、弱点を増やしていくようでもあって、なんでこういうことするんだろうと考えたこともあったんだけど、それはある一面でしかない。大切なひとやものが増えると、生活はたのしくなる。そのぶん、リスクとして失ったときの悲しみも受け入れないといけないというだけのことだ。

グリやモカがいて生活がたのしい。そっちのほうをちゃんと見る必要がある。そしてグリやモカがいなくなったらきちんと悲しみたい。でもそっちばかり見るんじゃなくて、いまいるひと、いまあるものの方もちゃんと見られるようになりたい。

今日は夕方から雨が降り始めて、いまもしとしとと降っている。たぶん、あの蝉もう明日は鳴かないんじゃないかな。それをいつまでも忘れないようにしようとするんじゃなくて、なんていうか、秋をきちんと堪能するのが、夏を長持ちさせてくれた蝉に対する返礼のような気がいまはしている。