正しさについて

最近書き物のためにいくつかの本を並行して読んでる。

最初は政治についての本だったのだけど、それから選挙→多数決→正しさみたいな感じで転がっていった。ベストセラーの『FACTFULNESS』も電子書籍で読んだ。それらの本を読んでいるうちに、30数年生きてきて、初めて思い至ったことがある。

まず、自分には「自分は正しい選択をすることができる」という思い込みがある。これは、究極的には「自分は正しいと思っている」ということでもある。正しい選択をする前提として、「選択に必要な正しい知識や情報を持っている」ということが求められる。そもそも「自分は正しい選択をすることができる」という思い込みから危険なんだけど、その前提となる知識や情報もはたして正しいのだろうか? ということに、生まれて初めて思い至った。

これは結構どうしようもない感がある。そもそもから疑っていかんといかんのか。「米軍基地、最低でも県外に移設します」と言われても、それを鵜呑みにできないのはかなり難しい。「最低でも県外に移設します(できるとは言ってない)」の「(できるとは言ってない)」はなかなかわかりようがないんじゃないか。1+1ってほんとに2か? 虹って7色なのか?

そういうことを疑ってかかるときりがない。そもそも正しいかどうかわからない知識や情報をもとに、正しい選択なんてできるのか? ていうか正しい選択ってなんだ? 誰が正しいとか正しくないとか決めるんだ? それを決めてるやつは正しいのか? ていうか正しくあることがよいみたいな価値観どこから生まれた? 正しくなくちゃいかんのか?

このへんで行き詰まってきた。正しくないひとたちが集まって多数決して選挙で民意を問うたとか言われても、「そんな……」みたいな感じがする。政治について興味・関心を持つことは大事だし、自分の考えがあることはよいと思うけど、「安倍政権はクソ!」とか一言で言い切られるようなところに帰結すると、いろいろなことをすっとばしててかなり暴力的な感じがする。たぶん誠実なのは「これでいいのかどうかはわからんけど、自分は最善を尽くした。もっとよい選択肢も存在するのかもしれんが」みたいなスタンスで、常に考え続けることなんだろうと思う。「安倍政権はクソ!」の一言で解決する物事があると思えない。

「正しさ」を生きていく上でのなにかしらの基準に置くの、少しずつやめられればいいなあと思う。

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

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