まばゆい

先日のトークイベント以来、その作品を読みたいと思うのはどういうメカニズムなのか、ということを考えている。著者の名前も知らなければ作品も知らない、存在していることすら知らないものは、読みたいと思うことができない。まずはなにかを知っている必要がある。

もともと著者を、処女作を発表する前から知っているというケースは、SNSのおかげで最近少し増えたけど、それでもやはりレアだ。どこかでなんらかの形で作品に触れて、そこから著者を知るということの方が多い。

僕のマリさんのことは、「でも、こぼれた」という合同誌で初めて知った。そこで書かれていた『健忘ネオユニバース』という作品が非常によくて、その後、販売されている個人誌は買えるだけ買った。ハマった、というほど無条件に盲目的に好きになっているわけではないと思うけど、彼女の作品がなにかを呼び起こす、そのなにかを知りたくて、読めるものはできるだけ読んでいる。

これは、おもしろいと思う作家の方全員に共通すると思うのだけど、感覚を言葉に置き換えるのが非常にうまい。固有の体験や感覚を、わかりやすい言葉と、読みやすいリズムで描く。固有の体験であるはずなのに、そこにはなんらかの普遍性が通底していて、それが読者に刺さったり刺さらなかったりする。僕のマリさんも例に漏れず、それがうまい。

東京から帰ると、ポストに僕のマリさんの新作『まばゆい』(と、悪口を書いた紙)が届いていた。発行人の関口さんは仕事が早い。ありがとうございます。悪口を書いた紙を最初に読んだ。これはひとえに僕の性格の悪さに起因するのだけど、印字された悪口を読むのはたのしい。そこにはなんらかの普遍性が通底していて、それが読者に刺さるのでありましょう……。

『まばゆい』には3つの短編が収められていた。創作なのか実話なのか、そのあいまいな感じがよかった。つくり話でも、そこに滲み出るなにかは、自分にとってめちゃくちゃ大切なことだったりする。書き終えて気付く。書き終えても気付かず、数年後に読み返して気付くことだってある。それは読み手側にはわかるはずもないのだけど、たぶんそこに通底するのであろう普遍性が、胸を打ったり打たなかったりする。『まばゆい』は現在もPDFで売ってます

今回の『まばゆい』は、完全な姿ではないらしい。春に完全版が出るという。僕のマリさんは「いつも、最高のものと思えるものを出したいんです。今度出す本も最高のものにしたい」と言っていた。僕のマリさんにいまどういった「最高」が見えてるのかわからないけど、春にはおそらくタイトル通りの本が生まれているのではないかと思う。それがまた、ひとりでも多くの方に刺さったらいいですね。

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