ねこ日記

ねこのGoogleカレンダーがあったらおもしろいかなと思って、Googleカレンダーモカ(ねこ)の予定を試しにつくってみた。

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管理権限を妻にも与えたところ、妻が毎日モカ日記をつけていて、Googleカレンダーを日記として使う考えがなかったので、おもしろいなと思った。

最近、保護猫活動をしている方との接点ができて、情報発信していかなければみたいなことを言ってたので思いついたんだけど、そういう保護されているねこが毎日更新するブログがあったらよさそう。ねこだから1〜2文程度でいいし。「今日はずっと寝ていた」とか「おやつたくさんもらえた」とか、内容もたぶん10パターンくらいしかないと思うんだけど、そういうのも積もり積もればねこの個性に見えてきそう。そのうち「この子飼いたい」と思ってくれるひとが出てきたら万々歳。そういうひとが現れなくても、保護猫の活動を知ってもらうきっかけにはなりそう。

100分de名著「資本論」

マルクスの「資本論」を4回に分けて解説してくれる便利な本。読むのに100分以上かかった。

資本主義のせいでありとあらゆるものが「商品」にされていってて、そのせいで「社会の富」は貧しくなっているという話。モノを買うの好きは好きなんだけど、このところずっと「いつまでこれ続けてるんだろう」という感じもあって、Amazonで何かをポチることで「生きてる!」って思ったことはないんだけど、それにしても、ちょっとこれ死ぬまで延々と続けるのもしんどいなあ、そのためにお金稼ぐのも馬鹿らしいなあと思っていたところだったので、ヒントがたくさん書かれててよかった。答えは書いてない。

40年生きてると、すり減らした感受性がどうにかなるってことはもうなくて、10代20代の感性にはもうついていけないみたいな気持ちの方が大きくなる。それを資本主義のせいだと言い切るつもりはないけど、20年弱働いてきて後に残ったものが、大金ではなく、感受性の激しい摩耗だけっていうのは虚しい感じがする。

資本主義が悪ってだけでもないと思うし、現にいま、絶版になってた本の中古品が2冊届いてサンキューAmazonとなってたところなんだけど、資本主義の結果が生んだいいところだけはありがたく利用しつつ、それに利用されない、搾取されないように自覚的に生きていかないとなと思った。そう思ったのだけれども、やる気を吸い取るさまざまがもう生活の至るところに存在していて、手に負えなくなってしまっている感じもする。携帯を捨てて、読んでない本を持って、山に籠るくらいしか手がない気もする。

 

死にたくないな

最近ぼんやりと、死ぬのがこわいと考えている。病気もこわいし、闘病生活なんてもっとこわい。病と闘うくらいならスパッと死にたいと思う気持ちと、死にたくない気持ちとが共存している。

仕事で、70代でNPOを立ち上げた方と話した。もともと野良猫に去勢・避妊手術をして、地域猫として面倒を見たり、里親を探したりする活動をしていた方で、最近NPO法人化した。自分と同世代の方々が、孤独を埋めるためにペットを飼いたいと思っても、ペットより先に自分が亡くなってしまう不安から飼えずにいる、そういうひとたちに寄り添える活動をしたい、また、そういった想いを引き継いで活動を続けてくれる若い世代に出会いたいという思いから、NPOを立ち上げたのだそうだ。

その方が「自分はもうそんなに長く生きるわけではないので」と言われるのを聞いて、このひとは死ぬのがこわくないのかな、と思った。これまでの人生で得た経験を有効に使いたいと語るその方の目は生き生きとしていて、迷いがない。未来について前向きに、そして具体的に考えている。猫の1年はおよそ人間の4年にあたるからという理由で、他のひとの4倍は進まないと猫に追いつけないと本気で話す。

いくつになってもカッコいいひとはカッコいいもんなんだな、と思う。と同時に、そういう域に達するのに70年もかかるのかよ、とも思う。できれば今、一応は心身ともにまだまだ健康な今のうちに、その域に達することができたらいいのに。

これという何かを見つけられたら、死ぬことを恐れている暇もなくなるような気がする。死にたくないなんて思ってるうちは、まだまだなんだろうな。そういう何かが見つかるまでは、死にたくないな。

電子書籍を読めるようになりたい

電子書籍を読めるようになりたい。物理的な書籍が本棚を埋めるさまは大好きなのだけど、スペースには限界がある。最近は買った本が10冊くらいになると、本棚の再構築をして、スペースをやりくりする羽目になっている。大きな本棚を買えば解決するのだけど、今度は大きな本棚を置くスペースが家にない。さすがに家は再構築できないので、本棚及び本(を買う頻度)をどうにかするしかない。

本棚問題には本質的な問いが含まれていて、「その本をずっと持っておかなければならないのか」というのを1冊1冊に問い直す必要がある。「とりあえず持っておきたい」というグレーゾーンの本と積読が多く、「一生持っておきたいぜ」という本ははたして何冊あるのか。

当座をしのぐソリューションとして、電子書籍で買って読む、というのがあるのだけど、電子書籍だとなかなか頭に入ってこない。小説以外の本を読むとき、折ったり書き込んだりするので、それができない電子書籍には抵抗があるっぽい。ハイライトとかもつけられるのだけど、なんか違う。本を読むという行為とデジタルの相性が、僕にとってはよくない。

とはいえ遠ざけてたら一生苦手なままなので、最近は電子書籍で読む練習をしている。紙の書籍より「読んだと思い込む感」が強い。ネット見てるみたいな感覚になってるっぽい。頭にあんまり入ってないのがわかる。そのうち慣れてくるのかな。

なんか勢いで買ってしまった「SPY×FAMILY」は、電子書籍でよかったなあと思ったけどもう遅い。連載が終わるまで単行本を買う。おもしろいし、次に来る作品のひとつではあるのだろうけど、別に本棚を埋める本ではなかったな、という感想。

SPY×FAMILY 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)

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いまだ、おしまいの地

結局のところ、「みんなちがって、みんないい」ということを手を替え品を替え、いろんなメディアで言ってるだけじゃないか。最近のドラマやTwitterでバズったマンガなどを見ていると、そう悪態をつきたくもなる。食傷気味だ。少し前には「世界に一つだけの花」の歌詞をふと思い出し、あれってそういえば、なにか言ってるようでなにも言ってないなと思った。ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン。そんなことはこの世に生まれてくる前からわかっていて、それでもナンバーワンを求められたり求めたくなったりするからしんどいんだ。わかりきったことを改めて言われても、なんの慰めにもならない。オンリーワン。だからなんなんだ。(当時そういう考え方が新鮮で、あの曲に救われた気持ちになったひとも多いのだろうとは思うけど)

こだまさんの『いまだ、おしまいの地』を読んだ。日常を、顕微鏡で観察しているかのような精度で捉え、さらっとした筆致で描く。こんな同期が、祖母が、詐欺師が、自分の周りにいるわけではないのに、なぜか知っているような気がしてくる。と同時に、俺はそんなにお賽銭を入れないし、俺はそういった相手にお金を振り込まないぞ、とも思う。こだまさんに対しては客観視できるのに、周りの人物に関しては「こんな感じのひとがいたかもしれない」という錯覚に陥る。

1作目の『夫のちんぽが入らない』から(もっというと、同人誌や、さらに遡ってブログのころから)、「これは自分の物語だ」と思わせるなにかが、こだまさんの文章にはある。自分の行動も感情も冷静に捉えて描かれているので、まったく押し付けがましくなく、さらっと入ってくる。読んでいるうちに、いつの間にか「俺だったらこんなことしねえよ」とか「いやいやいや、それは優しすぎるでしょ」とか突っ込んでいる。それは気づけば「自分だったらこうするかもな」に変わっている。読むRPGみたいな気分だ。読み終えた時には、自分のことが書かれた物語だったような気になっている。

こだまさんは、「みんなちがって、みんないい」みたいなことは言わない。以前は「こんなわたしでいいんでしょうか……」という感じだったけど、『いまだ、おしまいの地』では「こんなわたしでもまあいいか」というふうに変わっていて、読むうちにこちらも自分で自分のことを肯定できる気持ちになってくる。嫌な記憶の捉え方が少しだけ変わる。

正直に言えば、帯の後ろに書かれた「みんな、それで大丈夫だよ。」という言葉に少し違和感を覚えた。だけど、そんなことをこだまさんはストレートに言わないにしても、この本を読んだら、自分に対してそう言ってあげられる気にもなってくる。そう考えると、いいコピーだと思う。

このツイートを読んでいると、この本に収められている「メルヘンを追って」という話が5倍くらいおもしろくなるので、ぜひお試しください。

いまだ、おしまいの地

いまだ、おしまいの地

 

『つくづく vol.6』

雑誌『つくづく vol.6』が届いた。タオルだ。タオルにいくつかの読み物などが同封してある。読み物が充実している。タオルにも文字が書いてあって、読める。この『つくづく vol.6』が、『つくづく vol.7』が貼られた箱に入っていた。『つくづく vol.7』は梱包用テープだ。『つくづく』がもう混沌としている。

先日、出張先の古本屋でクラフト・エヴィング商會の『テーブルの上のファーブル』を買った。パラパラと読んだだけだけど、書籍と雑誌の間みたいな不思議な感触の本で、「テキトーに読める」という印象を持った。テキトーに読みたいところを好きなように読んでいいというのは、雑誌の持つ特性のひとつかもしれない。タオルの文字も、付属する読み物も、テキトーに読めるという意味では雑誌と言えなくもない。

別に『つくづく vol.6』が届いたから、というわけではないのだけど、届いた翌日、このタオルを持って近所の風呂に行った。近所の風呂に行くのはコロナ禍に入って初だ。半年ぶりくらいじゃないだろうか。

サウナに入り、タオルの文字を読んだ。それでふと思った。「風呂がたのしくなる雑誌」ってなかなかないんじゃないか? まあ、これも調べたら意外とあるんでしょうね。風呂に雑誌を持ち込めばなんだっていけるわけだし。

サウナ→水風呂のコンボを決め、椅子に座ってととのいながら、「雑誌とは……」と考えた。もうなんだって雑誌と言い張っていいような気がしてくる。

帰って、タオルを、いや『つくづく vol.6』を洗濯機に入れたのだけど、洗える雑誌はなかなかないと思う。これも調べたら意外とあるのかな。さすがにないだろ。

tukzuk.stores.jp

夏が終わらない

先日の長期出張での長距離移動に備えて、ゲームの「上海」(「麻雀ソリティア」とも言われています)をiPadに入れた。過去にもたまに入れては、時間の浪費と思って消していたのだけど、今回はまだ消していない。それどころか毎日1時間くらいやっている。

8月末、まだまだ猛暑だったころから始めて、現在ステージ7。このステージ7でもう1週間くらい足止めを食らっている。松山にいたころからずっとステージ7で止まっている。

上海とは、並べられた麻雀牌を消していくゲームで、多少のコツはあるのだけど、クリアできるかどうかは運の要素も大きい。もともとの配置からして、絶対に詰むということもあり、ステージ7は毎回絶対詰んでいる。こちらの消し方の手順が悪かったということもときどきはあるけど、おそらく上手に消していても、結果的に詰んでいただろう。

あのクソ暑かった松山の日からずっと解けないステージ7。これを解かないと、夏が終わらない気がしている。ステージ7に挑んでいる間は松山の日々のことをおのずと思い出すので、このままずっと詰みっぱなしでいてくれないかなともちょっと思う。

雑味

『つくづく』創刊号で編集者の宮田さんが語られていた、「雑味」について考えている。俺には雑味が足りないのではないか。生活を秩序で埋めていないか。元来秩序のなかで穏やかに生きていきたいと思ってきたものの、いざコロナ禍で強制的に穏やかな暮らしをさせられると、自分にはもっとパンク感が必要なのではないかと思うようになった。

緊急事態宣言が明けようとしていたころ、思い立ってパイパン(意味がわからない方は周りにひとがいないときにググってください)にしてみようと考え、ちょっとだけ剃ってやめた。緊急事態宣言が明けるということは、銭湯やサウナに行く機会が復活するということでもある。パイパンでサウナは、ちょっと意気込み過ぎと思われないだろうか。そう考えると躊躇してしまった。あれから2か月以上経ち、まだサウナに行っていない。あのとき躊躇せず剃っておけばよかった。俺は大事なときに守りに入りがちだ……

雑味ってそういうことではないですよね。

簡単にできる雑味の採り入れとして、普段の自分なら絶対買うことがないであろう本を買うところから始めてみた。Twitterで誰かがつぶやいていた本を買ってみる。勘で本を買ってみる。これが案外よかった。アンテナが拡がっていく感じがする。

メルカリを見るともなく見ていると、「世の中にこんなものが存在してたんだ!?」と思うことが多い。あれも雑味を採り入れているような感じがする。買わないけど。

先日、6日ほど実家に滞在することになり、意を決して押し入れの大片付けを行った。高校のころからある種の「作品」をつくり続けており、その資料やら何やらが大量に眠っているのを、ほぼすべて開封して確認して仕分けして体系立てて整理した。片付けそのものも体力的にしんどかったけれども、それ以上にしんどかったのが、過去の自分に向き合う作業だった。

過去の自分に向き合うつもりで片付けを始めたわけではないので、これは大きな誤算だった。資料の端々から垣間見える、若い自分の若さと青さと未熟さにすっかり当てられてしまった。あの頃は確かに熱があって、衝動と勢いが抑えきれずにいた。それに反比例して、経験がなかった。結果、未熟さが作品となってあらわれる。この歳だから言えるけど、若いころの自分が作品にしたかった「なにか」なんて、実は特別でもなんでもない。そう思えるようになった自分に、老いを確実に感じる。

あのころは、自分より上の世代になにを言われようと表現したいことがあった。自分だけの固有の感性を信じて、自分にしか生み出せないものをつくっていた(つもりになっていた)。はたしてそれはしあわせなのか? と思う自分と、ある種のうらやましさを感じる自分がいる。過去の未熟な自分の熱が、いまの自分を責める……とまではいかなくとも、過去の自分に「お前すっかり丸くなったな」と言われているようには感じる。

ここ5年、というか人生の伴侶となるひとと出会えて以降、そんな自分はすっかり牙を抜かれてしまったようだ。それはまったく悪いことではない。むしろいいことだと思う。作品なんかつくらなくてもいい、穏やかなしあわせを手に入れたってことなんだから。この状態をことのほか気に入っている。足るを知った。これ以上なにを望むというのか。

若いころの自分が作品にしたかった「なにか」がなんだったのか、いまなら一言で言える。それは「現状への不満」だ。自分の思い通りにならない状況、環境に抗いたい。あるいは肯定できるようになりたい。そのためのプロセスとして、作品づくりがあった。現状への不満なんて、固有でもなんでもない。みんなそれぞれ持っている。そのことをずっと認められなかった。

いまはもう現状に満足しているのだから、作品をつくれなくなっているのはまったく不思議じゃない。むしろ、あのころなにがそんなに不満だったのかとさえ思う。Twitterを見ると(最近あまり見なくなったけど)、人々が毎日なにかに怒っていて、時には仮想敵を用意してまで怒りをぶつけている。そういった状況にさえもはや不満はなく、「ああそうですか」と思って距離を取っている。先日ある方が「webはもう好き勝手吐き出す場ではないと思っている」と言われていて、認めたくはなかったけどその通りなんだろうなと思うようになった。それは不満と言えば不満だけど、もう諦めで処理できる。

むかしの自分だったらこの不満をもとに、SNSにまつわるなにかを作品にしたかもしれないけど、いまはもうそんな気がまったく起こらない。若くて青かった自分に「だせえ大人になったな」と言われそうだ。そんな牙要らんだろ。もういい大人なんだから。片付けをしながら、なぜかそれを認めたくなかった。

ミスチルの「光の射す方へ」どっちなんだ問題

日本が誇るモンスターバンドのひとつ、Mr.Childrenの名曲に「光の射す方へ」というものがある。等身大以上に売れていることにとまどいを覚えて突如活動休止、1年半後に「終わりなき旅」で活動再開して、その3か月後に出たシングル曲。当時そこまでは売れなかったものの、今でもライブで定番の曲となっている。

この曲のタイトルが表す「光の射す方」は、よく考えてみると方向がわかりにくい。光が照射する方を指しているのか、それとも光源そのものの方なのか。後者だとしたら「光の射す方へ」じゃなくて「光る方へ」でもよくなる。タイトル壊滅的にダサくなるけど。

僕はミスチルが言ってる「光の射す方」を勘違いしているかもしれない。いや、勘違いをしているのは僕だけなのだろうか? みんなは正解がわかってるんだろうか? 仮にライブに行って桜井さんが「みんなで光の射す方を向こう!」と呼びかけたとき、僕たちは全員同じ方向を向けるのだろうか? ミスチルの言葉は国民の理解を得ているのだろうか? 気になったのでTwitterでアンケートを取ることにした。

おそらく昼休みに昼食を摂りながらTwitterを見るひとが多いのではないかと考え、その少し前、1145ごろアンケートを投稿。昼休み終わりの13時まで、動向を注意深く観察することにした(ちなみに僕は1日中昼休みです)。

はじめ

「光が伸びている方向」優勢でスタート。総数6票とかなのですぐにひっくり返るだろう。

その後

すぐに「光源に向かう方向」が逆転。しばらくこの傾向が続く。「光が伸びている方向」:「光源に向かう方向」の割合が4060(以降、割合は100%を基準に書きます)で、「光源に向かう方向」派が優勢。ちょっと意外。

昼休み開始後(1210ごろ)

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昼休み効果か、投票数が伸びる。「光が伸びている方向」が追い上げてくる。一時期は49.250.8にまでなり、ほぼ半々に。

その10分後(1220ごろ)

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「光が伸びている方向」が再び追い抜く。しかし依然僅差。

その3分後(1224ごろ)

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両者きれいに並ぶ。回答してくださっているのが全員ミスチルファンだと仮定すれば、最終的には4951の比率に落ち着きたいところ(そういった歌詞の曲があります)。

その5分後(1229ごろ)

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「光が伸びている方向」がまたもやリード。回答数が増えてきたので、1%の違いが大きな差となりそう。と思ったけど150票の1%って1.5票か。

その3分後(1233ごろ)

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ふたたび両者ぴったり並ぶ。国民がまっぷたつに割れている。ミスチル側からすると正解が必ずあるはずなので、国民の半数は誤解しているということか。

その10分後くらい(1245ごろ)

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お互い抜きつ抜かれつしながら10分後、5149という、ミスチルファン歓喜の理想的な比率になる。欲を言えば逆がよかったのだけど(そういった歌詞の曲があります)。

昼休み終了間際(1258ごろ)

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フォロワー数3万超えの生物群さんにリツイートされたからか、昼休み終了間際の10分で回答数が倍増。1%の重みが6票くらいになる。「光源に向かう方向」が大きくリード。

昼休み終了(1300

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この数分での票の伸びがすごい。集計結果が反映されるタイミングみたいなものがあるのかもしれないけど。多くの方にとっての昼休みが終わったので、観察はいったん終了。最終結果を楽しみに待つことにする。

ということで最終結果は以下の通り。

「光源に向かう方向」がややリードしたものの、おおよそ50%に近い割れ方となり、「約半数は誤解している」という結果が明らかになった。

個人的な回答を書いておくと、「光の射す方へ」は虫の走光性(光に向かっていく性質)についての歌です。「虫の走光性についての歌です」と断言していいのかわからないけれども。2番のサビで「月夜に歌う虫けら 羽を開いて 光の射す方へ」という歌詞があり、虫には走光性があるので、この場合の「光の射す方」とは「光源に向かう方向」である、というのが僕の考えです。

あと、ラストのサビ前から入り始めるコーラスが「jump up to brighter(明るい方に跳ぶ)」と歌っている、という説があり(諸説あります)、光源に向かってるという考えを補強しています。

曲をきちんと聴いたことがなくて、なんとなくタイトルだけ知っているというひとはどっちと思うのか疑問に思ってアンケートをとってみたのだけど、一応過半数は正解なのではないでしょうか。今後もしライブやフェスに行って桜井さんが「みんなで光の射す方を向こう!」と呼びかけたときには、みんな光源の方を向くようにしましょう。そう、ステージ上で最も輝いている、Mr.Childrenのみなさんの方向をね!