つくづく別冊①

つくづく別冊①「友だちと互助会」を読んだ。『つくづく』は編集者の金井悟さんがつくられているインディーズ雑誌で、これまで銭湯広告とかタオルとか束見本とかインスタントカメラとか、さまざまな『つくづく』が発行され、そのたびに「『つくづく』ってなんだよ」「ていうか雑誌ってなんだよ」と思わされてきたのだけど、ここに来てようやく、ほんとうに本が出た。逆にびっくりする。

「わかりづらさを極力排除した」というこの別冊では、12組による「トークショウ」と、2人による「エッセイ」で「友だちと互助会」について語られている。『つくづく』はもう本になっている時点で十分にわかりやすいと思ってしまう。

トークショウで語られている内容は、友だちよりも互助会の要素の方が大きいように感じた。トークショウの中で少なくない方が「この関係は友だちではないよね」的なことを言われていて気づいたのだけど、どうやら「子どものころに築いていた友だちの距離感以外は、友だちと呼んじゃいけないのではないか」みたいな感覚が大多数にあるような気がする。そして、僕は自分の「友だち」のハードルが意外と低いことにも気づいた。一度も会ったことがないけど友だちと思っているひとも結構いる。彼/彼女らはカニとか米とか送ってくれるけど、互助というわけではない(いやまあ何かあったら助けるけど)。ていうかなんでカニとか米とか送ってくれるんだろう。ふだんそんなに米食べてなさそうなのかな? 米とかなんぼあってもいいですからね。米送ってくれてありがとう。あとカニも。

今回の『つくづく』が「関係性についての特集」だったらまだ腑に落ちたかもしれない。いろいろな関係性を見ていくにつれて、「互助」というキーワードが浮かび上がってくるような構成だったら、また違った捉え方をしたような気がする。

複数のひとが意識的に関わり合えば、そこには多少なりとも互助は発生するのではないか。僕も友だちからカニとか米とか送られてるけど、友だちにAmazonギフト券とかお菓子とかを送ることもある。そうやって「なんかあったら助けるからな」というメッセージを暗に送り合っているような気もする。でもこれは「互助会」ではない。

互助会からスタートしたことで、そのひとの中でなんでもありになってしまったのか、結局友だちの話も互助会の話もしていないような印象を受けたトークショウもあり、それは残念だった。

わかりにくさを極力排除して、売れるものを目指してつくられたという今回の『つくづく』がどれくらいのひとに届くのか見てみたい。側から見ると自ら好んで茨の道を歩んでいるように見える金井さんを、微力ながら『つくづく』を買うことで助けられたらと思っている(金井さんのことも僕はもう友だちと思っています)。……ん? 本のつくり手と読者は、もしかして友だちじゃなくて互助会みたいな関係なのか? 

つくづく別冊1 特集=友だちと互助会

つくづく別冊1 特集=友だちと互助会

  • 発売日: 2021/05/15
  • メディア: 単行本
 

 

戻れない

観る前にその映画の評価を検索したり、今から行くつもりの飲食店の評判を事前に調べたり、買おうかどうか迷っている本のレビューの星の数で買うのをやめたり、やってることのほとんどが誰かが出した答えを上からなぞるような生活になってしまって、もう戻れない。

2021年積読の旅(3月編)

電子書籍のセールを探すのにうってつけのサイトを見つけてしまい、気になる本が電子書籍で安くなったら買うようになってしまった。ただでさえ電子書籍読まないのに……。

アガサ・クリスティーの作品。先月買った『アガサ・クリスティー完全攻略』で「読んでないやつは殺す」くらいの勢いで「読め」と書いてあったので、電子書籍で購入。もともと読んでみたくてほしいものリストに入れていたのだけど、読むのか?

パリのアパルトマンから (だいわ文庫)

パリのアパルトマンから (だいわ文庫)

 

パリ在住の方が書いたエッセイ。電子書籍で安くなっていたので購入。ときどき読んでいる。

アガサ・クリスティーの作品。これは読んだ。ナイル川でひとが死ぬ話。まったく知らなかったのだけど、今年映画化されるらしいので観てみたい。 

アガサ・クリスティーの作品。勘で買った。

これもアガサ・クリスティーの作品。ポアロシリーズの最終話らしく、読むのがたのしみ。

もはや僕は人間じゃない

もはや僕は人間じゃない

 

爪切男さんの新作エッセイ。毎月新作が出るので、これがアップされる頃には「ひとつ前の作品」になっている。男性が男性に行う性描写があるのだけど、笑ったり泣いたりしてしまった。名作。

「音楽と酒。」号。いつでも読めると思って油断してまだ読んでない。雑誌を積読するとは……。

働きアリに花束を

働きアリに花束を

 

週刊SPA!で爪さんが連載したものをまとめたもの。連載はすべて読んでいたのだけど、こちらはこちらで楽しめた。編集の力を感じた。

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

レトリック感覚 (講談社学術文庫)

 

ずっとほしいものリストに入れていたのだけど、電子書籍が安くなっていたので購入。読むのか?

あっという間に今年も3か月が過ぎてしまった。これから少しずつ暑くなっていくの嫌だな……。

やりたいことたくさんあるようで無いのかもしれないな

やりたいことがたくさんある。積んでる本を読みたいし、最近買い集めて増えてきたDVDを観たい。ウォッチリストにも観たい映画が溜まってる。最近サボりがちになってるフランス語の勉強もしたいし、なるべく毎日運動したい。筋トレが習慣になりたい。筋トレが無理ならリングフィットを毎日やりたい。雨でも関係ないから。つくりたいものもいっぱいある。暇なときに健康診断を受けに行きたいし、歯医者も行っときたい。今年は毎月ちゃんと収支の入力をしたい。とりあえずいま書いたやつはどれも同じくらいやりたい。収支の入力はそうでもないか。

これだけやりたいことが積まれてくると、どれもする気にならない。やりたいことがいつの間にかTODOリストみたいになっている。tofubeatsが「20140803」でうたってたことがいまだに核心をついてる。あれから7年近く経ってるのに、相変わらず始まってもいないことにやきもきばかりしてる。時間だけが過ぎて、残り時間が確実に減ってる。

20140803

20140803

  • 発売日: 2014/10/01
  • メディア: MP3 ダウンロード
 

さうなと2

サウナがブームになっているらしいがピンとこない。「いま、整骨院がアツい」と言われてもピンとこないのと同じで、誰になんと言われようと行くひとは行くし、行かないひとは行かないものだと思っていたからだ。「ブーム」にはどこか、消費してやる感がつきまとってしまう。いい印象がない。

「サウナの雑誌はまだ存在していないから」という理由で、サウナへの「偏愛」や「混沌」をテーマにした雑誌をクラウドファンディングでつくると意気込んでいる編集者を白い目で見ていた(その後、ある出版社から別のサウナ雑誌が創刊されて笑ってしまった)。「これは商売になる」と思われたのか、サウナが消費されているっぽいのはなんとなく感じる。いまサウナへの「偏愛」を語っているひとの何割が、10年後もサウナに通っているんでしょうね。

東京に住むある方が、「いまサウナが好きであることがつらい」と言われていた。東京のサウナはもうどこもかしこも意識が高くなっているそうで、サウナでビジネストークが繰り広げられていたりするらしい。すごい。福岡では、少なくとも僕がたまに行くスーパー銭湯のサウナではそんなことはなく、強制的に見せられているバラエティ番組や野球中継に、たまに反射的に「あっ」とか「えっ」とか言っているくらいだ。ほぼ無言。意識が低くて心地よい。

ほんとうにサウナが好きなひとにつらい思いをさせておいて、何が「偏愛」だ。

純粋なサウナ愛が詰まった「さうなと」という同人誌がある。2冊目まで出ており、「さうなと2」を確か去年の11月ごろ買った。「さうなと2」のテーマは「コロナ禍」で、コロナによってサウナを我慢することを余儀なくされたサウナ熱狂者9名の文章が綴られている。

買ってすぐに読んだときには、正直なところ「コロナ」の部分に当てられてしまった。初めての緊急事態宣言でいろいろなものごとを制限されていた息苦しい日々を思い出さざるを得ず、11月の僕は、それに向き合うのがしんどかった。時間をおいて読み返してみて、11月ほどしんどくなかったのは、二度目の緊急事態宣言が出されて(解除されたけど)、日々のベースが「うっすらとしんどい」になったからかもしれない。

Sauna Camp.の大西さんという方の「金のワンダースワン」という文章が特によかった。ワンダースワンというかなりマイナーなゲーム機からサウナに着地する流れが見事で、すっかり失ってしまったと思っていた「熱」が、自分にもまだ灯せるんじゃないかという感覚に陥る。大西さんはおそらく同世代で、ピロウズにハマり、ギターを弾くという、自分のそれと似たような思春期を過ごし、大人になるにつれて自分のなかの熱が少しずつ失われていくのを実感していた。何から何まで「これは自分のための話だ」と思わされた。初めて読んだとき、あまりによかったのでTwitterで「よかったです」とリプライを送ってしまった。FF外から失礼しました。

初めて読んだときには気づかなかったけど、今日子さんの「サウナだいすき!」もかなりよかった。タイトル通りの文章だった。半日のソロキャンプを経て、風呂に入ったあとでまた別のサウナに行くという1日を綴ったものなのだけど、途中、このひとはかなりサウナに毒されているのではないかと思う箇所がある。フローリングを丁寧に拭いているとき、コーヒーを淹れているとき、ソロキャンプをしているとき、「これはサウナだ」と感じる、というのだ。言いたいことはわかるし、読んでいると説得力もあるのだけど、やはり僕は「それはサウナじゃないだろ」と思ってしまう。フローリングを拭くのは掃除だし、コーヒーを淹れるのはコーヒー淹れだし、ソロキャンプはソロキャンプだ。「サウナだいすき!」というタイトルをつけてしまえるほどのひとにもなると、生活のいろんな瞬間に、サウナを感じられるようになるのか。そして、風呂に入ったあとで別のサウナに行けるようになるのか。

偏愛ってこういうことなんじゃないかな、と思う。側から見ると「えっ、マジで!?」みたいなことを普通にやれるくらい、サウナが好きでしょうがない。他の7名の方も、僕からしたら「えっ、マジで!?」と思うくらいに、生活のなかにサウナが普通に存在している。たぶん彼ら彼女らは、それを偏愛を呼ばないだろう。ただ単に愛だ。「偏愛」と自ら言ってしまえるくらいの愛なら、そんなもの、やっぱどこか冷めてるんじゃないのか? ブームのせいで彼ら彼女らのようなサウナ熱狂者たちが居心地の悪い思いをしないといいな。 

さうなと

さうなと

 

 

ふわふわのフレンチトーストがつくれるようになった

ふわふわのフレンチトーストがつくれるようになった。大事なことなので3回書きました。

フレンチトースト、卵液に漬け込む時間が重要と思われがちだけど、一晩漬けたところであまりうまくいかず、「パンに卵液をつけて焼いたやつ」みたいにしかならなかった。近所の喫茶店のモーニングで食べられるようなフレンチトースト食べてえと思ってググったところ、誰でも簡単にふわふわのフレンチトーストがつくれる方法が載っていたので、知見をシェアします。

パンを卵液に漬けたら、片面1分ずつ、500wの電子レンジで温めるだけ。両面温めると、卵液がしみこんでふわふわすぎて指でつまんだら崩れるくらいくしゅくしゅになったやつができるので、それを弱火でフライパンで蒸し焼きにするだけ。きちんと浸かっていればそのぶんだけパンが卵液で膨らむので、余計にやわらかく感じる。

去年自粛期間中にラッシーをつくるのが流行っていて見事に軽く太ったのだけど、今年はフレンチトーストで軽く太るかもしれない。

ケアルかけてください

オンラインのゲーム部ができた。早速入部した。みんななかなか「この日これやるから集まろうぜ!」と言わなそうな感じがする。求めていた部活動の姿だ。たまたま都合が合ってできる、くらいが心地よい。

Among Us(宇宙船を舞台にした人狼ゲーム)を知らないひととやったのが、おそらく僕のオンラインゲームデビューなのではないかと思う。ソシャゲとまた違って、コミュニケーションを取る必要がある。父がやっていたドラクエやFFのオンラインゲームをチラ見して、父も「ナターシャさん、ケアルかけてください!」とか言ってるんだろうかと思うと、無理だなと思った。テーブルトークRPGみたいなもんか。テーブルトークも中学生のころ興味があったけど、中学生が興味を持ちそうなもの、という感じがしていた。大人も案外ケアルかけてください欲があったことを知って驚いた。ちなみにケアルはFFに出てくる回復魔法です。

おれはインターネットでなんとなく知っているひとになら、「ケアルかけてください」と言えるのだろうか。言える気がする。この差はなんだ? 「知らないひとからのケアルはかけてもらわない」と小さいころ親にでも教えられたのだろうか。

しかしおそらく部員の方々とはケアルをかける/かけられる関係にはならないだろう。なぜなら我々はきっと、冒険の旅には出ないからだ。領土を拡げて競い合ったり、オセロをしたり、宇宙船の中で殺しあったり、鬼ごっこをしたり、そういったゲームをするのではないかと思う。「私は右周りで行きますね」くらいは言うだろうけど、「ケアルかけて!」とは言わずに済むだろう。少し安心する。この差はなんだ? なんでケアルはそんなに恥ずかしいんだ? 「ケアル」という言葉が恥ずかしいのか?

Among Usでは1ゲームが終わるごとに「gg」と言うひとが多い。Among Usをはじめてすぐの頃、「ggってなんですか?」と正直に訊いた。「good game」の略ですよ、と教えてもらった。それから、知らないひとと殺し合ったあとで僕も「gg」と言えるようになった。仕事のメールで同僚に送る「お疲れさまです」と同じような感じだ。疲れてるだろうな、と思ってなくても「お疲れさまです」と書けるし、そこまでgoodと思ってなくても「gg」と書ける。いずれ僕もそんな感じでサラッと「ケアルかけてください」と言えるようになるのだろうか。

ケアルをかけられずに済み、今のところガツガツしておらず、なんとなく都合が合えば何かやりたいですねという空気の部活。最高の環境だ。何かが始まりそうな予感の中に身を置いている今の状態が、いちばんわくわくするのかもしれない。ケアルをかける前に、ゲームしようと声をかける必要がある。それはそれでハードルが高い。

2021年積読の旅(2月編)

今月は怒涛の忙しさを挟んだため、本をあまり買わなかった。買う前に読む必要があり、積読を少しずつ消化している。

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

自分をいかして生きる (ちくま文庫)

  • 作者:西村 佳哲
  • 発売日: 2011/06/10
  • メディア: 文庫
 

『自分の仕事をつくる』が意外とよかったので、続刊も読みたいと思っており、仕事で忙しい期間に読もうと思って購入。途中までしか読んでない。

タイムマシンのつくりかた (草思社文庫)
 

タイムマシンをつくろうかなと思って購入。本当につくりかたが書いてあるのだけど、「まず10兆度の温度を用意します」みたいなことが書いてあって、初手からハードルが高い。

『ひきこもらない』を買って読んではいたのだけど、電子書籍が安くなっていたので購入。とりあえず買った感がある。今月ようやくphaさんの『夜のこと』を読んだ。まぎれもなくphaさんの本だった。

ブックオフで安くなっていたので購入。有斐閣アルマの本買うの、大学生以来だと思う。

先月会話編を買ったのだけど、ブックオフで1,000円くらいで売られていたので文法編も購入。これは勉強するの半年後くらいになりそう。

電子書籍でかなり安くなっていたので購入。おれはアガサ・クリスティーを完全攻略どころか入門すらしていないんだぜ。

以前Kindleで10巻まで買っていた『じゃりン子チエ』が読み始めたら意外と面白くて、最近は『じゃりン子チエ』ばかり読んでいる。テツの声を西川のりおがやっていた記憶があるのだけど、ハマり役という感じがする。コメディーと人情話を織り交ぜたような話なんだけど、軽く不幸で笑うに笑えない。

瞑想している

瞑想アプリというものを入れて、寝る前にやってみたら、ほぼ毎日寝落ちしてすごい。癒される音声ガイドに従って瞑想の練習をするのだけど、「ここまでははっきり覚えてる」というポイント以降、意識が完全にない。どうも瞑想界では寝落ちするのはダメらしいのだけどそんなこと知るか。寝落ちする感覚がおもしろくて、毎晩寝るのが楽しみになっている。

Meditopiaというアプリを使っていて、最初に「1年のサブスクに登録しないと使えませんよ〜。とは言ってはいないんですけど、そう思っちゃうひとがいても仕方ないですね〜」みたいな感じの案内が出る。「は? 知らんし」という宇垣美里のような強い気持ちで登録を無視すると、結構いろんなプログラムが無料で使える。こっちは気持ちよく眠れればそれでいいんだ。ちなみに上記のリンクから登録すると、2週間プレミアムプランが無料で使えるそうです(PR)。

最近仕事の関係で自律神経が少し乱れてて、交感神経が優勢気味(なので眠れない)だったのだけど、瞑想してると割とすんなりと眠れる。この前瞑想しながら「あっぶねえ、寝落ちてた」と思って目覚めてしまい、再度瞑想に挑戦、やっぱり眠れんな……と思っていたら、2時間が経過していた。瞑想のプログラム自体は10〜15分くらいなので、1時間半くらいは気絶してて、そういうの初めての経験だったのでおもしろかった。

日記を1年書いた

去年の2月1日から日記をつけ始めて1年が経った。目的は達成できたので、Dawn Societyに日記をアップするのは今回で最後。

30代の最後の1年の「日々の漂流」を観察したいと思って始めたのだけれど、実は去年の4月ごろに、その目的は達成されてしまった。コロナのせいで、もはや漂流どころではなくなったからだ。ほぼ全人類が濁流に飲み込まれる中で、ひとり漂流できるわけもなく、歪な1年を過ごした。

自分の仕事が比較的「不要不急」に属するもののため、仕事を起点に、自分の存在意義みたいなものについて、頭の片隅でずっと考え続けた1年だったように思う。いまでも考えている。40で不惑とか言うけど、ほんとに惑わなくなるんかなあ……と思っていたけれども、誕生日まで1か月を切った年末くらいに、結構はっきりと、物事の筋道が見えたような気がした。ほんとうに「不惑」になれるのかもしれない、と思った。

昨年どうしてもやりたかった企画があった。2019年末に思いついて、関係各所に連絡、20年秋くらいにやるつもりだったその企画は、初夏ごろに、当面延期とすることにした。その企画をやることが、自分の「本当の仕事」なんだろうな、と思った。それと比べると、ほとんどのことが「日銭を稼ぐためにやっていること」のように思える。

もっと自分の「本当の仕事」を増やしたい。そのためにやること、やめることが割ときれいに見えるようになってきた。漂流からではなく、濁流に飲まれた末に見えるようになったのは不本意ではあるけど、もういい歳になったので、自分の人生をもう少し自分に引き寄せたい。

結果的に、日記を書こうが書くまいが、変化と、それを自覚することを余儀なくされた1年を過ごし、1年日記を書いた達成感もなければ感慨みたいなものもない。1年前に書いた文章に、「不惑を目前にして、『未来がある』という感覚が非常に薄れているのを痛感する」と綴っていた。1年後のいま、全員が未来に向かっている感じはする。未知のウィルスの克服という形ではあるけど、ポジティブな方に向かおうとする機運はある。いつそれが克服できるのか、克服した先にはなにが待っているのか、ていうか死なずに来年を迎えられているのか。相変わらず、なにもわからないということしかわからない。