でも、こぼれた

「でも、こぼれた」を読んだ。

6名の著者の頭文字を取ってつけられたというこのタイトルが、見事に6篇の短編群を貫くテーマになっていたと思う。「普通」に生きたいと思って、普通に生きようと努力した、でも、そこからこぼれてしまったひとたちの日常の断片。いずれの作品も、そのこぼれてしまったという現実に、自分なりに折り合いをつけた(つけようとする)話だと思った。

「普通」は時に、ぬるま湯のような温度のくせに我々をしつこく絡め取ろうとする呪いにもなる。そこからはずれてしまう自分を自覚するのはこわい。もう取り返しがつかないところに行くまで、その事実から目を背けていたい。6名の著者の方々はいずれも、そこから目を背けず、自分なりの折り合いのつけ方を獲得している(しつつある)ように感じた。

なかでも僕のマリさんの『健忘ネオユニバース』は、最初から最後までやさしさを感じて好きだった。おそらく著者のみなさん、何らかの形で「表現」することで呼吸を取り戻せる方々なのではないかと思うけど、『健忘ネオユニバース』は「書くこと」で呼吸を取り戻す、その真っ只中を切り取った作品だと思った。「表現」は本来、受け手を必要とする。渾身の「表現」が、受け手としあわせな出会いをしたとき、呼吸器にわっと空気が入ってくるのを感じる。その瞬間が丁寧に描かれていた。

僕は芸術って「肯定してくれるもの」だと思っているのだけど、そういった意味では、「でも、こぼれた」は芸術だと思う。「普通」とか、そこからこぼれたとか、そういったすべてを肯定してくれる。とてもいい本でした。製作から販売まで、この本が生まれて手元に届く過程に関わったすべてのみなさん、ありがとうございました。