東京日記

弾丸ツアーで東京に行ってきた。B&Bで行われた「趣味と本業と自由研究~個人誌で未来を切り開くには」というトークイベントに参加するのが主な目的。イベント終了後、登壇された編集者の高石さんと中華をつつきながら小一時間ほど話をさせていただいた。こっちの方が主目的だったかもしれない。

イベントは、編集者の金井悟さんが自費で出版された雑誌「つくづく」に端を発して、「商業誌ではなく個人誌が未来を切り開くのではないか」というテーマで作家・編集者がそれぞれの立場から話すというもの。5人の登壇者がいたのだけど、全員見事に立ち位置が違って面白かった。話が散らかりつつあると思ったら、週刊文春などの編集をされていた宮田文久さんが軌道修正、ライターの宮崎智之さんが文学史的な背景などを補足、高石さんは「編集者」という立場から、僕のマリさんは「作家」という立場から作品をつくることについて話し、金井さんはそれらすべてをいい意味で泳がせている、という印象。途中、宮崎さんが白熱して他の方の話を遮って自分の話に持っていくことが何回かあり、「このひとの話をもう少し聞きたかったのに……」という気持ちになったのが残念だった。

トーク全体の感想として「未来を切り開かないといけないか?」と思った。それぞれがそれぞれの立場でやるべきこと・やりたいことを淡々とやっていくことの方が重要で、それが結果的に未来を切り開くこともあれば、淘汰されることもあるのではないだろうか。このあたりは宮崎さんの憤りと真逆の考え方だと思う。

今後なにをやりたいかという質問に対して、僕のマリさんが「書くことと仕事との両立ができている今の生活がずっと続いてほしい」と言っていたのが印象的だった。自分が今いるところをしあわせと思うのは実は難しいと思うのだけど、僕のマリさんはそのことを自覚していて、そのしあわせをきちんと続けていきたいと宣言しているように感じた。

高石さんは「殺伐とした文学フリマをやりたい」と言われていた。常に闘いの中に身を置いていたいと言っているかのようだ。カッコいい。これは他の登壇者も同意しており、文フリの空気を知らないのでよくわからなかったけど、いまの文フリ(の会場の空気)にどこか物足りなさがあるのは事実なんだろう。

イベント終了後、高石さんが「チャーハン食いに行きましょう」と誘ってくださったのだけど、お目当てのお店が休みで、台湾料理屋に入ったところ、チャーハンがなかった。ちまきみたいなやつしかなかった。4品くらいおかずを頼んでつつきつつ、自己紹介などをした。高石さんは「トークダメでした……」と反省されていたけど、僕は、なにを言うかと同じくらいなにを言わないかも重要だと思います、言うことと言わないことを選んでいる姿がよかったですみたいなことを伝えた。寡黙であればいいわけではない(だってトークイベントだし)。だからといって、思いつくままにほいほい喋るのがいいのかというと、決してそうでもないと思う。高石さんが話された言葉の中には、聞き手に確実に伝わってくる重さと鋭さがあった。核心をついたドキッとする質問もされていて、そういう言葉がパッと出てくるのがすごい、と思った。

個人的には、バランスよくトークが回るような立ち位置にサッと入られた宮田さんの話をもう少し聞きたかった。交通整理してくださったおかげでかなり面白いイベントになったけど、宮田さん個人の話をそういえばあまり聞けてないなというのが残念だった。

それらもすべて泳がせる金井さんの手腕。「つくづく」という雑誌がどうやってできたのかを態度で物語っていたように感じた(実際はめちゃくちゃ動かれていたのだろうと思いますが……)。

翌日(今日です)、僕のマリさんがお茶しませんかと誘ってくださったので、僕のマリさんの職場でお茶。要約すると「おじさんは若い者を応援してます」というようなことを伝えた。あまり時間がないながらも、前日のイベントで聞きたかったのに聞けなかったことが聞けた気がする。

話しながら「俺は自分より若い世代になにかを託したいと思ってるんだろうか、そうじゃないといいな」ということを考えていた。下の世代は自分の人生の敗者復活戦のために存在しているのではない。期待をするのは勝手だけど、期待に責任を抱き合わせて、自分ができなかったことを半ば押し付けるようになったら、もう完璧老害だろうなと思う。結局、それぞれがそれぞれの立場でやるべきこと・やりたいことを淡々とやっていくしかない。あこがれたり期待したりするのは楽しいけど、それはそれとして、己のことをきちんとやっていくしかないですね……