「つくづく」増刊号に寄せて

寄稿させていただいた「つくづく」増刊号が、先日の文学フリマ京都から頒布された。僕は文章を書いて送っただけで、それを本にするためのもろもろの手続きも、それに伴う諸経費の捻出も、実際の販売も、編集者の金井さんが一手に引き受けてくださっているので、正直言って楽なポジションであることこの上ない。金井さんにかける言葉が「ありがとうございます」なのか「おめでとうございます」なのか「お疲れさまでした」なのかわからない。たぶん、全部の言葉を伝えるべきなのだろう。

12月、高石さんと僕のマリさん目当てで下北沢のトークイベントに参加し、そこで「つくづく」創刊号を購入、書籍とイベントの感想をTwitterやブログにパラパラと書いていた。それが金井さんの目に留まり、DMで今回の執筆依頼が届いた。感想をツイートした2時間後くらいには依頼が来ていた。その展開の早さ(速さ)については、増刊号に書いたのでぜひそちらでお読みください。

今回、非常におもしろい経験をさせていただいた。原稿を書き、三度推敲し、送り(ここまで半日)、後日ゲラが届き、「ゲラ!」と思い、五度読み返し、1箇所だけてにをはを直して戻した(これも半日)。ゲラで対峙した「ちょっと前に書いた自分の文章」は、語弊を恐れずに言えば、よさがわからなかった。悪いものを適当に書いて出したわけではないし、書いたものに不満が残るまま出したわけでもない。「現時点で書けるいいものにしよう」と思って書いた。現在進行形で咀嚼しているものごとについて書くのは、良し悪しの判断が難しい。時間を置いて読み直すことで、そういったことを実感できたのがおもしろかった。

書き直せばこれよりもっとおもしろいものが書ける! みたいな感覚もなく、「これがいま出せるベストなんだ、受け入れろ」と思った、思えた。何度書いても同じような質感の文章しか浮かばない。それで、腹を括ることにした。

僕が体験したのはほんの数千字程度のレベルだけど、1冊の本を執筆するひと、雑誌にコラムなどを定期的に掲載するひと、新聞に記事を書くひと、その他もろもろ、みんなどっかで腹括ってんだな、と実感した。世に出てしまうと修正が難しい媒体に文章を書き続けているひと、みんな尊敬する。金井さんの仕掛けた自由研究で、僕までもが思いもよらぬ自由研究をさせてもらえたことに感謝しています。

「つくづく」増刊号の現物を手にして、さらに時間を置いて自分の文章を読み返したとき、どういう印象を持つのかたのしみ。「へえ〜」くらいは思いたいな。今もまだ自由研究の途上にいるので、感覚に客観的になれない。平べったい言葉で言うと、今「わー」って思ってます。本になってうれしいのでみんな買って読んでー。わーー。