自家中毒

寄稿した文章の載ったつくづく休刊記念増刊号「自家中毒」をいただいた。

少し厚めの封筒を開けると、立派な冊子が出てきた。思ってた以上に立派でちょっと笑ってしまった。これを300円で売ってるのか。ていうか、「PR誌だから」という理由で創刊号を買ったひとにタダで配ってるのか。こんなことされたら自費出版のハードルめちゃくちゃ上がるじゃないか。プロの本気のアマチュア活動ってほんと恐ろしいな。

はじめに書店の方々の感想文がまとまって載っているのだけど、ほぼ全員、意訳すると「これ儲ける気ないだろ」みたいな手厳しいことを書いてて、また笑ってしまった。ただそれは決してダメ出しという意味合いではなくて、「……ま、俺はこういうの好きだけど」という愛に裏打ちされたものだ。「しょうがねえなまったく」と苦笑しながら売り方を考える書店の方々を想像する。

わかりやすさが必ずしも正しいわけじゃない。混沌を愉しめるひとにとっては文字どおり愉快な雑誌だと思うけど、そりゃまあ、売る方はムズいですよね。そういう書店の方の生の声が聞けた感じがしておかしかった。そして、それをそのまま掲載する金井さんもおかしい。全部褒め言葉です。

「課題図書」への書評は、いずれも創刊号を読みたくなるような文章だった。こだまさんが失礼なことを書いたとTwitterに書いていたけど、失礼というよりもライバルへのエールのように思えた。

「つくづくの読書感想文」は、これまで存じ上げなかった方のなかでは、伊瀬ハヤテさんと岡村響子さんの文章がよかった。合同誌「でも、こぼれた」で僕のマリさんが書いていた文章が「書くことで呼吸ができるようになった話」だったとすると、伊瀬ハヤテさんの感想文は、「読むことで呼吸ができるようになった話」のようだ。岡村響子さんの文章はとても的確でわかりやすかった。「つくづく」が昔のインターネットみたいという指摘は非常に頷ける。この一言に出会えただけでも、増刊号を読む価値があると思った。それに比べて俺の文章は一体……

高石さんの文章は、いまの僕にものすごく刺さった。好きなことを仕事にしてきたはずなのに、いまではもう、好きだったはずのことが嫌いになっている。それどころか、なにが楽しいのかさえわからなくなってしまっている。感受性を擦り減らしてきた割には大して稼げてもいない。長年の仕事を経ていま手元に残っているものはなんなのか、もともと好きなものはなんだったのか、ひとつひとつ確認しているところだ。そんな中、高石さんが「雑誌のように生きたい」とシンプルな言葉で目標を言い切ってしまえるところに、一種の憧れを感じる。それに比べて俺は一体……

わかしょ文庫さんのエッセイは、小6のころの自由研究の話。記録には残らなかったけど記憶に残り続ける話だ。最優秀賞に選ばれなくても、大人たちに理解されなくても、結局いまこうして文章になって昇華されている。変に賞を取らなくて、記録にならなかったおかげで、こういう文章に出会えたのはありがたい。

 

ここまで書いて2週間くらい寝かせていた。アップするか迷った。理由としては、寄稿した手前、「身内の褒め合い」みたいに思われると嫌だなと思ったからだ。全然身内じゃないのだけど。でも結局アップすることにしたのは、好きなものを好きということのよさを実感しているからだ。それと、これは伊瀬ハヤテさんもツイートされていたけど、世に出したものを受け止めてもらえるということがどういうことか実感しているからだ。そこは忖度や馴れ合いなしでいきたい。……いや、忖度あるのかな。感想は個人に伝えればいいわけだし。とにかく、おもしろくないのにおもしろかったとは言いたくない、言わない。要するに、「自家中毒」おもしろかったんですよね、俺の文章以外…………