日記を1年書いた

去年の2月1日から日記をつけ始めて1年が経った。目的は達成できたので、Dawn Societyに日記をアップするのは今回で最後。

30代の最後の1年の「日々の漂流」を観察したいと思って始めたのだけれど、実は去年の4月ごろに、その目的は達成されてしまった。コロナのせいで、もはや漂流どころではなくなったからだ。ほぼ全人類が濁流に飲み込まれる中で、ひとり漂流できるわけもなく、歪な1年を過ごした。

自分の仕事が比較的「不要不急」に属するもののため、仕事を起点に、自分の存在意義みたいなものについて、頭の片隅でずっと考え続けた1年だったように思う。いまでも考えている。40で不惑とか言うけど、ほんとに惑わなくなるんかなあ……と思っていたけれども、誕生日まで1か月を切った年末くらいに、結構はっきりと、物事の筋道が見えたような気がした。ほんとうに「不惑」になれるのかもしれない、と思った。

昨年どうしてもやりたかった企画があった。2019年末に思いついて、関係各所に連絡、20年秋くらいにやるつもりだったその企画は、初夏ごろに、当面延期とすることにした。その企画をやることが、自分の「本当の仕事」なんだろうな、と思った。それと比べると、ほとんどのことが「日銭を稼ぐためにやっていること」のように思える。

もっと自分の「本当の仕事」を増やしたい。そのためにやること、やめることが割ときれいに見えるようになってきた。漂流からではなく、濁流に飲まれた末に見えるようになったのは不本意ではあるけど、もういい歳になったので、自分の人生をもう少し自分に引き寄せたい。

結果的に、日記を書こうが書くまいが、変化と、それを自覚することを余儀なくされた1年を過ごし、1年日記を書いた達成感もなければ感慨みたいなものもない。1年前に書いた文章に、「不惑を目前にして、『未来がある』という感覚が非常に薄れているのを痛感する」と綴っていた。1年後のいま、全員が未来に向かっている感じはする。未知のウィルスの克服という形ではあるけど、ポジティブな方に向かおうとする機運はある。いつそれが克服できるのか、克服した先にはなにが待っているのか、ていうか死なずに来年を迎えられているのか。相変わらず、なにもわからないということしかわからない。