さうなと2

サウナがブームになっているらしいがピンとこない。「いま、整骨院がアツい」と言われてもピンとこないのと同じで、誰になんと言われようと行くひとは行くし、行かないひとは行かないものだと思っていたからだ。「ブーム」にはどこか、消費してやる感がつきまとってしまう。いい印象がない。

「サウナの雑誌はまだ存在していないから」という理由で、サウナへの「偏愛」や「混沌」をテーマにした雑誌をクラウドファンディングでつくると意気込んでいる編集者を白い目で見ていた(その後、ある出版社から別のサウナ雑誌が創刊されて笑ってしまった)。「これは商売になる」と思われたのか、サウナが消費されているっぽいのはなんとなく感じる。いまサウナへの「偏愛」を語っているひとの何割が、10年後もサウナに通っているんでしょうね。

東京に住むある方が、「いまサウナが好きであることがつらい」と言われていた。東京のサウナはもうどこもかしこも意識が高くなっているそうで、サウナでビジネストークが繰り広げられていたりするらしい。すごい。福岡では、少なくとも僕がたまに行くスーパー銭湯のサウナではそんなことはなく、強制的に見せられているバラエティ番組や野球中継に、たまに反射的に「あっ」とか「えっ」とか言っているくらいだ。ほぼ無言。意識が低くて心地よい。

ほんとうにサウナが好きなひとにつらい思いをさせておいて、何が「偏愛」だ。

純粋なサウナ愛が詰まった「さうなと」という同人誌がある。2冊目まで出ており、「さうなと2」を確か去年の11月ごろ買った。「さうなと2」のテーマは「コロナ禍」で、コロナによってサウナを我慢することを余儀なくされたサウナ熱狂者9名の文章が綴られている。

買ってすぐに読んだときには、正直なところ「コロナ」の部分に当てられてしまった。初めての緊急事態宣言でいろいろなものごとを制限されていた息苦しい日々を思い出さざるを得ず、11月の僕は、それに向き合うのがしんどかった。時間をおいて読み返してみて、11月ほどしんどくなかったのは、二度目の緊急事態宣言が出されて(解除されたけど)、日々のベースが「うっすらとしんどい」になったからかもしれない。

Sauna Camp.の大西さんという方の「金のワンダースワン」という文章が特によかった。ワンダースワンというかなりマイナーなゲーム機からサウナに着地する流れが見事で、すっかり失ってしまったと思っていた「熱」が、自分にもまだ灯せるんじゃないかという感覚に陥る。大西さんはおそらく同世代で、ピロウズにハマり、ギターを弾くという、自分のそれと似たような思春期を過ごし、大人になるにつれて自分のなかの熱が少しずつ失われていくのを実感していた。何から何まで「これは自分のための話だ」と思わされた。初めて読んだとき、あまりによかったのでTwitterで「よかったです」とリプライを送ってしまった。FF外から失礼しました。

初めて読んだときには気づかなかったけど、今日子さんの「サウナだいすき!」もかなりよかった。タイトル通りの文章だった。半日のソロキャンプを経て、風呂に入ったあとでまた別のサウナに行くという1日を綴ったものなのだけど、途中、このひとはかなりサウナに毒されているのではないかと思う箇所がある。フローリングを丁寧に拭いているとき、コーヒーを淹れているとき、ソロキャンプをしているとき、「これはサウナだ」と感じる、というのだ。言いたいことはわかるし、読んでいると説得力もあるのだけど、やはり僕は「それはサウナじゃないだろ」と思ってしまう。フローリングを拭くのは掃除だし、コーヒーを淹れるのはコーヒー淹れだし、ソロキャンプはソロキャンプだ。「サウナだいすき!」というタイトルをつけてしまえるほどのひとにもなると、生活のいろんな瞬間に、サウナを感じられるようになるのか。そして、風呂に入ったあとで別のサウナに行けるようになるのか。

偏愛ってこういうことなんじゃないかな、と思う。側から見ると「えっ、マジで!?」みたいなことを普通にやれるくらい、サウナが好きでしょうがない。他の7名の方も、僕からしたら「えっ、マジで!?」と思うくらいに、生活のなかにサウナが普通に存在している。たぶん彼ら彼女らは、それを偏愛を呼ばないだろう。ただ単に愛だ。「偏愛」と自ら言ってしまえるくらいの愛なら、そんなもの、やっぱどこか冷めてるんじゃないのか? ブームのせいで彼ら彼女らのようなサウナ熱狂者たちが居心地の悪い思いをしないといいな。 

さうなと

さうなと