でも、こぼれた

「でも、こぼれた」を読んだ。

6名の著者の頭文字を取ってつけられたというこのタイトルが、見事に6篇の短編群を貫くテーマになっていたと思う。「普通」に生きたいと思って、普通に生きようと努力した、でも、そこからこぼれてしまったひとたちの日常の断片。いずれの作品も、そのこぼれてしまったという現実に、自分なりに折り合いをつけた(つけようとする)話だと思った。

「普通」は時に、ぬるま湯のような温度のくせに我々をしつこく絡め取ろうとする呪いにもなる。そこからはずれてしまう自分を自覚するのはこわい。もう取り返しがつかないところに行くまで、その事実から目を背けていたい。6名の著者の方々はいずれも、そこから目を背けず、自分なりの折り合いのつけ方を獲得している(しつつある)ように感じた。

なかでも僕のマリさんの『健忘ネオユニバース』は、最初から最後までやさしさを感じて好きだった。おそらく著者のみなさん、何らかの形で「表現」することで呼吸を取り戻せる方々なのではないかと思うけど、『健忘ネオユニバース』は「書くこと」で呼吸を取り戻す、その真っ只中を切り取った作品だと思った。「表現」は本来、受け手を必要とする。渾身の「表現」が、受け手としあわせな出会いをしたとき、呼吸器にわっと空気が入ってくるのを感じる。その瞬間が丁寧に描かれていた。

僕は芸術って「肯定してくれるもの」だと思っているのだけど、そういった意味では、「でも、こぼれた」は芸術だと思う。「普通」とか、そこからこぼれたとか、そういったすべてを肯定してくれる。とてもいい本でした。製作から販売まで、この本が生まれて手元に届く過程に関わったすべてのみなさん、ありがとうございました。

ニニちゃん

生まれ変わりを信じている(ただし自分以外)。

祖父は晩年、いきなり犬を飼いだした。祖父が亡くなった後も犬だけは数年生きていた。特に根拠はなかったけど、祖父はこの犬に乗り移ったと信じていた(その犬も亡くなりましたが……)。今ごろ祖父も犬もなにかに生まれ変わっていることでしょう。

2年前、愛猫のグリが亡くなった。悲しかったけど、生まれ変わってまた僕たちのところに来てくれるんじゃないかと、これまた根拠もなく信じていた。ねこの姿かたちをしていないかもしれないけど、グリはまたうちの子になってくれるはずだと思っていた。

半年くらい前、架空のグリの生まれ変わりに「ニニ」という名前をつけた。グリの生まれ変わりというくらいだから、くろねこのおんなのこでかぎしっぽのはず。のらねこが子ねこを産む季節になると、近所でニニちゃんを探すともなく探した。妻はよく「もうニニちゃん生まれたかな?」と言う。グリ(ともう1ぴきのモカ)の誕生日が55日で、どうせ生まれ変わるんならこのあたりで産まれるんじゃないかという気がしていたからだ。

最近、うちの裏の駐車場でニニちゃんを見かけた。生後12か月くらいで、くろねこでかぎしっぽだった。おんなのこかどうかはわからない。声がきたない。グリも声はきれいではなかった(そこがかわいかったんだけど)。

ニニちゃんのすぐ近くに母ねこがおり、いつもニニちゃんを見守っていた。夜中、母ねことニニちゃんがとことこと移動するのを見た。あのニニちゃんはうちに来るニニちゃんではないけど、おかあさんとしあわせに暮らしてほしいと願っている。あと、おかあさん、ニニちゃんの面倒見られなくなったらいつでも遠慮なく僕たちに相談してきてくれていいですよとも思っている。それはそれとして、いまでもグリを愛している。

将棋やってる

将棋が苦手。相手がいるゲームで「読み」を利かせるのが壊滅的に苦手で、なにをどうすればいいのかが全くわからない。そもそも「読む」っていうのがどういうことなのかわからない。と思ってたけど、ここ3週間くらい毎日アプリで将棋を指して、入門の本とかわからないなりに読んだりしているうちに、ちょっと上達したかもと思えるようになってきた。

自分が指したい手をちょっと我慢してみて、相手が指したいと思っているであろう手をイメージする。それに先回りして対処する。それが「読み」かあ~と気づいた。

3週間将棋を指して思ったのは、「読み」って「思いやり」に似てるな、ということ。まあ思いやっても最終的には王を倒すわけですが……。「読む」ためには経験や知識があると便利。なのでたくさん場数を踏むのが大事。失敗を分析するのが超大事。

将棋が強くなる上で身についていくであろうメンタリティーで、相手を思いやる力を向上させ、先回りして相手の寝首をかけるようになりたい。毎回王手かけて生きていきたい。

iPad mini(第5世代)を買った

iPad mini(第5世代)を買った。

いままでiPad mini 3を使ってて、挙動がかなりもっさりしてたのだけど、そのストレスが全くなくなった。電子書籍とかdマガジンとかさくさくめくれる。Twitterもするする動く。するする動きすぎてみんなのツイートあんまり読んでない。

Apple Pencil(第1世代)も使えるということだったので、Apple Pencilも買った。簡単な絵を描いたり簡単なレタッチができたりすると便利だなと思って、お絵かきアプリ(メディバンペイント)とPhotoshopのなんかを入れた。レタッチはまだ全然やってない(なるべくならやりたくない)けど、絵はちょこちょこ描いてる。ペンみたいなやつでそれっぽい線が描けるの本当にすごい。筆圧で太さが変わったりするのすごい。使いこなせる気がしないけど、使いこなせるように練習する。

Office365を年間契約しているので、WordとExcelのアプリも入れた。これはすぐ消した。iPad使ってまで仕事せんでいいやろ。

そしてこの文章。これはiMac (21.5-inch, Mid 2011)のテキストエディットで書いている。iPadで書くわけがない。

正しさについて

最近書き物のためにいくつかの本を並行して読んでる。

最初は政治についての本だったのだけど、それから選挙→多数決→正しさみたいな感じで転がっていった。ベストセラーの『FACTFULNESS』も電子書籍で読んだ。それらの本を読んでいるうちに、30数年生きてきて、初めて思い至ったことがある。

まず、自分には「自分は正しい選択をすることができる」という思い込みがある。これは、究極的には「自分は正しいと思っている」ということでもある。正しい選択をする前提として、「選択に必要な正しい知識や情報を持っている」ということが求められる。そもそも「自分は正しい選択をすることができる」という思い込みから危険なんだけど、その前提となる知識や情報もはたして正しいのだろうか? ということに、生まれて初めて思い至った。

これは結構どうしようもない感がある。そもそもから疑っていかんといかんのか。「米軍基地、最低でも県外に移設します」と言われても、それを鵜呑みにできないのはかなり難しい。「最低でも県外に移設します(できるとは言ってない)」の「(できるとは言ってない)」はなかなかわかりようがないんじゃないか。1+1ってほんとに2か? 虹って7色なのか?

そういうことを疑ってかかるときりがない。そもそも正しいかどうかわからない知識や情報をもとに、正しい選択なんてできるのか? ていうか正しい選択ってなんだ? 誰が正しいとか正しくないとか決めるんだ? それを決めてるやつは正しいのか? ていうか正しくあることがよいみたいな価値観どこから生まれた? 正しくなくちゃいかんのか?

このへんで行き詰まってきた。正しくないひとたちが集まって多数決して選挙で民意を問うたとか言われても、「そんな……」みたいな感じがする。政治について興味・関心を持つことは大事だし、自分の考えがあることはよいと思うけど、「安倍政権はクソ!」とか一言で言い切られるようなところに帰結すると、いろいろなことをすっとばしててかなり暴力的な感じがする。たぶん誠実なのは「これでいいのかどうかはわからんけど、自分は最善を尽くした。もっとよい選択肢も存在するのかもしれんが」みたいなスタンスで、常に考え続けることなんだろうと思う。「安倍政権はクソ!」の一言で解決する物事があると思えない。

「正しさ」を生きていく上でのなにかしらの基準に置くの、少しずつやめられればいいなあと思う。

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

FACTFULNESS(ファクトフルネス) 10の思い込みを乗り越え、データを基に世界を正しく見る習慣

 

書くことについて

みんな大好きスティーブン・キング(実は読んだことがない)が書いた『書くことについて』という、その名の通り文章の書き方についてまとめた本がある。小説家らしい文体で、意外と具体的なテクニックについて書いてある。

「副詞とか多用せんでよろしい」「受動態で書かんといかんのか」「無駄な装飾はやめろ」「ストレートに書け」「パラグラフを意識してリズムを作れ」などなど。英語圏のひとなので、文法の根本が違うところはありますが……。でも結局そういうことができるようになるにはトレーニングあるのみだというところに帰結する。そうですね。

この半年くらいで文章の技術が上がったのを自覚した。よーーくわかったのだけど、文章が上手になりたいなら、推敲をするのがいちばんの近道だ。痛感したのは、書き手の気持ちよさは読み手には関係ないということ。1回推敲するだけでも「書いたお前は気持ちいいかもしれんけど……」みたいな部分がわかってくる。そこをばっさり切って、文章を「読み手が気持ちいいように」並べ替えるだけで、かなり読みやすくなる。2回推敲すればもうちょいよくなる。ということで最近は「2回は推敲する」ということをルールにしている。

以下、個人的に身につけた文章を書く上でのコツです。

  • 文章は1文字でも少ない方がいい
  • 一文がやたら長いのが続く文章は最悪
  • 書き手の気持ちよさは読み手には関係ない
  • 話し言葉ではその語順だったかもしれんが、記事にするなら並べ換えた方が読みやすい、みたいな表現は多々ある
  • 文章の癖は個性じゃない、甘えんな
  • 癖をできるだけ排除しようとしても滲み出てくるものが個性
  • とにかく推敲しろ

つるんとした文章が書けるようになりたいと思ってきたけど、やっとできるようになってきた。自分の文章に個性があるのかわからん。別になくてもいい。個性をわかってもらおうとも思わん。自分をわかってほしくて書くわけでもないし。

そうしたら一気に文章を書く気力も失せてきて、技術と気持ちのバランスムズいっすねというところに来た。気持ちがなくても淡々と書けたいものですね……。

書くことについて (小学館文庫)

書くことについて (小学館文庫)

 

10年前の答え合わせ

10年前に自分に投資してたのの結果が今だと思うんだけど、結果としてはまあまあいい感じで回収できてるんじゃないかと思う。10年後はもっといい感じでやっていけてるのかなあ。投資は不可欠だけど、運もあるもんな。事故って死なないとか。

長く住む町

近所にあった店が次々となくなっていく。

最近よく行く居酒屋に、「しばらくお店を休みます」という張り紙があった。聞けば「店を手伝ってくれている親父が検査入院するから」だという。結局その店は3日くらい休んだだけで、営業を再開した。親父さんもなんの異常もなかったらしい。ただ、もし、と考える。もし、親父さんがなんらかの病気で長期入院を余儀なくされていたら、このお店もやがて人手不足で閉店したのだろうか。

うちのマンションの1階部分は、建築設計事務所や美容院、古本屋、ヨガ教室などが入っている。美容院は「サロン・ド・なんとか」みたいな名前で、名前のハードルが高すぎて逆に行ってみたくもある。古本屋は「古本屋」はあくまで表の顔で、常連は裏の勝手口から入るシステムになっており、裏にはエロ本がたくさんある(らしい)。妻と付き合い始めのころ、なにも知らずに入ったところ、「えっ、あのエロ本屋に行ったん?」と驚かれた。

1階の隅には、古くからやっているスナックなのかなんなのかわからないけどとにかく「常連しか入れないような雰囲気の、お酒が出る店」があった。いちげんさんが入るにはハードルが高すぎて一度も行っていないのだけど、この店は去年、いつの間にか営業を辞めていた。お店がなくなっていたこと自体、なかなか気づかなかった。

1階の中央、いちばん目立つところには、これまた古くからやっているらしい、魚を売りにした居酒屋があった。店主の親父が手書きしたメニューやらセールスコピーやらが店の内外に貼られていて、高校のころ街中で見かけて軽いトラウマになった自主制作映画『バリゾーゴン』の宣伝手法を彷彿とさせた。

「魚介スープの手作りラーメン」とか「見た目にこだわらない方、オススメですよ!」とかそんな内容のなぐり書きが店の入り口まわりに所狭しと貼ってあって、かえって逆効果だった。「金返せ!」とか「安倍は死ね!」とかが紛れてても全然気づかないくらい、「宣伝」とは真逆の雰囲気を持つ張り紙だった。

過去に一度、昼食がてらひとりで行ったことがあるのだけど、店主以外誰もいない店内で、店主にやたらと話しかけられて逃げ場もなく、つらかった。味はそこそこの魚介系ラーメンを、店主に延々話しかけられながら食べた。あまりいい印象がない。

夜の居酒屋としての評判はそこそこよかったみたいだけど、なにしろ昼にいい印象がなかったため、夜行く気になれなかった。「居酒屋としての評判はそこそこよかったみたい」というのもネットの口コミを見ただけで、ほんとかどうかあやしい。実際、客の気配をあまり感じなかった。それでもしぶとく営業を続けていたので、ここは客が来ても来なくてもお構いなしに存在し続けるんだろうなと思っていた。

そんな店も、先日閉店した。どうやら店主が突然他界したらしい。

 

この町はいわゆる住宅地で、小学校も公園もスーパーも病院もひととおりある。ペットの病院もまあまあある。そのうえ、安くておいしい居酒屋が多い。

この町はとにかく暮らしやすい。市街地まで出るのがそこそこ大変ではあるけど、それ以外はなんの不自由もない。好きな場所がたくさんできた。家も最高。妻もいて、ねこもいる。ここで「代わり映えのしない毎日」を過ごすことができたら、案外それってかなりしあわせなことなんじゃないかと思うけど、実際には代わり映えのしない毎日なんてない。あらゆるものが、等しく、終わりに向かう。好きになった店もひとも、いつかはいなくなる。別に好きじゃなかった店も、なくなってしまうと結構さびしい。

1階の居酒屋跡地は、張り紙はおろか、店の名前も消されてなくなってしまった。「ここはまあずっとあるだろう」と思っていたところが、突然あっさりとなくなってしまう。そういうことはよくある。これから先も、そういうことは尽きない。

好きな町に長く住むためには、いまある「当たり前」の尊さをきちんと認識する必要がある。好きな町にずっと住み続けるのって、それなりにシビアなことなのかもしれないな。

10万円得した

3月にiPad Proを買うつもりでいたのだけど、やめた。理由としては、要らないからだ。

なくてもやっていけている、ということは、なくてもよいということだ。いまあるものでなんとかできている。iPad Proを買ったところで、「生活のやっていき」が向上すると思えなかった。そもそもいま「生活のやっていき」に困ってない。

3月に10万が飛んでいかなくなったので、10万円得した気分になった。これはかなりいいライフハックなのではないか。「別に心の底からほしいというわけではない、まあまあ欲しいもの」を数か月先に買うぞ、と決めて、それをキャンセルするのは、友達との予定をドタキャンして家で引きこもってなんか動画を見たりする的な気持ちよさがあるのではないか。友達との予定をドタキャンして家で引きこもってなんか動画を見たりしたことがないのでわかりませんが……。