『つくづく vol.6』

雑誌『つくづく vol.6』が届いた。タオルだ。タオルにいくつかの読み物などが同封してある。読み物が充実している。タオルにも文字が書いてあって、読める。この『つくづく vol.6』が、『つくづく vol.7』が貼られた箱に入っていた。『つくづく vol.7』は梱包用テープだ。『つくづく』がもう混沌としている。

先日、出張先の古本屋でクラフト・エヴィング商會の『テーブルの上のファーブル』を買った。パラパラと読んだだけだけど、書籍と雑誌の間みたいな不思議な感触の本で、「テキトーに読める」という印象を持った。テキトーに読みたいところを好きなように読んでいいというのは、雑誌の持つ特性のひとつかもしれない。タオルの文字も、付属する読み物も、テキトーに読めるという意味では雑誌と言えなくもない。

別に『つくづく vol.6』が届いたから、というわけではないのだけど、届いた翌日、このタオルを持って近所の風呂に行った。近所の風呂に行くのはコロナ禍に入って初だ。半年ぶりくらいじゃないだろうか。

サウナに入り、タオルの文字を読んだ。それでふと思った。「風呂がたのしくなる雑誌」ってなかなかないんじゃないか? まあ、これも調べたら意外とあるんでしょうね。風呂に雑誌を持ち込めばなんだっていけるわけだし。

サウナ→水風呂のコンボを決め、椅子に座ってととのいながら、「雑誌とは……」と考えた。もうなんだって雑誌と言い張っていいような気がしてくる。

帰って、タオルを、いや『つくづく vol.6』を洗濯機に入れたのだけど、洗える雑誌はなかなかないと思う。これも調べたら意外とあるのかな。さすがにないだろ。

tukzuk.stores.jp

夏が終わらない

先日の長期出張での長距離移動に備えて、ゲームの「上海」(「麻雀ソリティア」とも言われています)をiPadに入れた。過去にもたまに入れては、時間の浪費と思って消していたのだけど、今回はまだ消していない。それどころか毎日1時間くらいやっている。

8月末、まだまだ猛暑だったころから始めて、現在ステージ7。このステージ7でもう1週間くらい足止めを食らっている。松山にいたころからずっとステージ7で止まっている。

上海とは、並べられた麻雀牌を消していくゲームで、多少のコツはあるのだけど、クリアできるかどうかは運の要素も大きい。もともとの配置からして、絶対に詰むということもあり、ステージ7は毎回絶対詰んでいる。こちらの消し方の手順が悪かったということもときどきはあるけど、おそらく上手に消していても、結果的に詰んでいただろう。

あのクソ暑かった松山の日からずっと解けないステージ7。これを解かないと、夏が終わらない気がしている。ステージ7に挑んでいる間は松山の日々のことをおのずと思い出すので、このままずっと詰みっぱなしでいてくれないかなともちょっと思う。

雑味

『つくづく』創刊号で編集者の宮田さんが語られていた、「雑味」について考えている。俺には雑味が足りないのではないか。生活を秩序で埋めていないか。元来秩序のなかで穏やかに生きていきたいと思ってきたものの、いざコロナ禍で強制的に穏やかな暮らしをさせられると、自分にはもっとパンク感が必要なのではないかと思うようになった。

緊急事態宣言が明けようとしていたころ、思い立ってパイパン(意味がわからない方は周りにひとがいないときにググってください)にしてみようと考え、ちょっとだけ剃ってやめた。緊急事態宣言が明けるということは、銭湯やサウナに行く機会が復活するということでもある。パイパンでサウナは、ちょっと意気込み過ぎと思われないだろうか。そう考えると躊躇してしまった。あれから2か月以上経ち、まだサウナに行っていない。あのとき躊躇せず剃っておけばよかった。俺は大事なときに守りに入りがちだ……

雑味ってそういうことではないですよね。

簡単にできる雑味の採り入れとして、普段の自分なら絶対買うことがないであろう本を買うところから始めてみた。Twitterで誰かがつぶやいていた本を買ってみる。勘で本を買ってみる。これが案外よかった。アンテナが拡がっていく感じがする。

メルカリを見るともなく見ていると、「世の中にこんなものが存在してたんだ!?」と思うことが多い。あれも雑味を採り入れているような感じがする。買わないけど。

先日、6日ほど実家に滞在することになり、意を決して押し入れの大片付けを行った。高校のころからある種の「作品」をつくり続けており、その資料やら何やらが大量に眠っているのを、ほぼすべて開封して確認して仕分けして体系立てて整理した。片付けそのものも体力的にしんどかったけれども、それ以上にしんどかったのが、過去の自分に向き合う作業だった。

過去の自分に向き合うつもりで片付けを始めたわけではないので、これは大きな誤算だった。資料の端々から垣間見える、若い自分の若さと青さと未熟さにすっかり当てられてしまった。あの頃は確かに熱があって、衝動と勢いが抑えきれずにいた。それに反比例して、経験がなかった。結果、未熟さが作品となってあらわれる。この歳だから言えるけど、若いころの自分が作品にしたかった「なにか」なんて、実は特別でもなんでもない。そう思えるようになった自分に、老いを確実に感じる。

あのころは、自分より上の世代になにを言われようと表現したいことがあった。自分だけの固有の感性を信じて、自分にしか生み出せないものをつくっていた(つもりになっていた)。はたしてそれはしあわせなのか? と思う自分と、ある種のうらやましさを感じる自分がいる。過去の未熟な自分の熱が、いまの自分を責める……とまではいかなくとも、過去の自分に「お前すっかり丸くなったな」と言われているようには感じる。

ここ5年、というか人生の伴侶となるひとと出会えて以降、そんな自分はすっかり牙を抜かれてしまったようだ。それはまったく悪いことではない。むしろいいことだと思う。作品なんかつくらなくてもいい、穏やかなしあわせを手に入れたってことなんだから。この状態をことのほか気に入っている。足るを知った。これ以上なにを望むというのか。

若いころの自分が作品にしたかった「なにか」がなんだったのか、いまなら一言で言える。それは「現状への不満」だ。自分の思い通りにならない状況、環境に抗いたい。あるいは肯定できるようになりたい。そのためのプロセスとして、作品づくりがあった。現状への不満なんて、固有でもなんでもない。みんなそれぞれ持っている。そのことをずっと認められなかった。

いまはもう現状に満足しているのだから、作品をつくれなくなっているのはまったく不思議じゃない。むしろ、あのころなにがそんなに不満だったのかとさえ思う。Twitterを見ると(最近あまり見なくなったけど)、人々が毎日なにかに怒っていて、時には仮想敵を用意してまで怒りをぶつけている。そういった状況にさえもはや不満はなく、「ああそうですか」と思って距離を取っている。先日ある方が「webはもう好き勝手吐き出す場ではないと思っている」と言われていて、認めたくはなかったけどその通りなんだろうなと思うようになった。それは不満と言えば不満だけど、もう諦めで処理できる。

むかしの自分だったらこの不満をもとに、SNSにまつわるなにかを作品にしたかもしれないけど、いまはもうそんな気がまったく起こらない。若くて青かった自分に「だせえ大人になったな」と言われそうだ。そんな牙要らんだろ。もういい大人なんだから。片付けをしながら、なぜかそれを認めたくなかった。

ミスチルの「光の射す方へ」どっちなんだ問題

日本が誇るモンスターバンドのひとつ、Mr.Childrenの名曲に「光の射す方へ」というものがある。等身大以上に売れていることにとまどいを覚えて突如活動休止、1年半後に「終わりなき旅」で活動再開して、その3か月後に出たシングル曲。当時そこまでは売れなかったものの、今でもライブで定番の曲となっている。

この曲のタイトルが表す「光の射す方」は、よく考えてみると方向がわかりにくい。光が照射する方を指しているのか、それとも光源そのものの方なのか。後者だとしたら「光の射す方へ」じゃなくて「光る方へ」でもよくなる。タイトル壊滅的にダサくなるけど。

僕はミスチルが言ってる「光の射す方」を勘違いしているかもしれない。いや、勘違いをしているのは僕だけなのだろうか? みんなは正解がわかってるんだろうか? 仮にライブに行って桜井さんが「みんなで光の射す方を向こう!」と呼びかけたとき、僕たちは全員同じ方向を向けるのだろうか? ミスチルの言葉は国民の理解を得ているのだろうか? 気になったのでTwitterでアンケートを取ることにした。

おそらく昼休みに昼食を摂りながらTwitterを見るひとが多いのではないかと考え、その少し前、1145ごろアンケートを投稿。昼休み終わりの13時まで、動向を注意深く観察することにした(ちなみに僕は1日中昼休みです)。

はじめ

「光が伸びている方向」優勢でスタート。総数6票とかなのですぐにひっくり返るだろう。

その後

すぐに「光源に向かう方向」が逆転。しばらくこの傾向が続く。「光が伸びている方向」:「光源に向かう方向」の割合が4060(以降、割合は100%を基準に書きます)で、「光源に向かう方向」派が優勢。ちょっと意外。

昼休み開始後(1210ごろ)

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昼休み効果か、投票数が伸びる。「光が伸びている方向」が追い上げてくる。一時期は49.250.8にまでなり、ほぼ半々に。

その10分後(1220ごろ)

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「光が伸びている方向」が再び追い抜く。しかし依然僅差。

その3分後(1224ごろ)

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両者きれいに並ぶ。回答してくださっているのが全員ミスチルファンだと仮定すれば、最終的には4951の比率に落ち着きたいところ(そういった歌詞の曲があります)。

その5分後(1229ごろ)

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「光が伸びている方向」がまたもやリード。回答数が増えてきたので、1%の違いが大きな差となりそう。と思ったけど150票の1%って1.5票か。

その3分後(1233ごろ)

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ふたたび両者ぴったり並ぶ。国民がまっぷたつに割れている。ミスチル側からすると正解が必ずあるはずなので、国民の半数は誤解しているということか。

その10分後くらい(1245ごろ)

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お互い抜きつ抜かれつしながら10分後、5149という、ミスチルファン歓喜の理想的な比率になる。欲を言えば逆がよかったのだけど(そういった歌詞の曲があります)。

昼休み終了間際(1258ごろ)

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フォロワー数3万超えの生物群さんにリツイートされたからか、昼休み終了間際の10分で回答数が倍増。1%の重みが6票くらいになる。「光源に向かう方向」が大きくリード。

昼休み終了(1300

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この数分での票の伸びがすごい。集計結果が反映されるタイミングみたいなものがあるのかもしれないけど。多くの方にとっての昼休みが終わったので、観察はいったん終了。最終結果を楽しみに待つことにする。

ということで最終結果は以下の通り。

「光源に向かう方向」がややリードしたものの、おおよそ50%に近い割れ方となり、「約半数は誤解している」という結果が明らかになった。

個人的な回答を書いておくと、「光の射す方へ」は虫の走光性(光に向かっていく性質)についての歌です。「虫の走光性についての歌です」と断言していいのかわからないけれども。2番のサビで「月夜に歌う虫けら 羽を開いて 光の射す方へ」という歌詞があり、虫には走光性があるので、この場合の「光の射す方」とは「光源に向かう方向」である、というのが僕の考えです。

あと、ラストのサビ前から入り始めるコーラスが「jump up to brighter(明るい方に跳ぶ)」と歌っている、という説があり(諸説あります)、光源に向かってるという考えを補強しています。

曲をきちんと聴いたことがなくて、なんとなくタイトルだけ知っているというひとはどっちと思うのか疑問に思ってアンケートをとってみたのだけど、一応過半数は正解なのではないでしょうか。今後もしライブやフェスに行って桜井さんが「みんなで光の射す方を向こう!」と呼びかけたときには、みんな光源の方を向くようにしましょう。そう、ステージ上で最も輝いている、Mr.Childrenのみなさんの方向をね!

スターオブスターオブババア

はてなブログには「はてなスター」というものがある。はてなブログ版「いいね」みたいなもので、はてなのアカウントさえ持っていれば、無課金でいくらでも星をつけることができる。

Twitterで「めちゃくちゃいいね」と思っていても1いいねしかつけることができないのだけど、はてなスターはいくらでも星をつけることができるので、逆に1はてなスターというのは大してよいと思っていないのではないかみたいな気持ちが働くのであろう、スターオブババアさんという熱心な読者の方にいたっては、「3はてなスター」がデフォルトになっている。

要するにはてなブログでは「いいね」がインフレしているのだ。スターオブババアさんのはてなスターにいたっては、3で割ってカウントすることにしている。記事によって3〜5スターを使い分けているのが見られるけれども、3〜5いいねではなく1〜1.7いいねくらいの気持ちで受け止めている。

僕もついついやってしまうので気持ちはわからなくはない。過去にはスターオブババアさんのブログに300くらいはてなスターをつけたこともある(リンク先の記事はとてもよい内容です)。今後は「よかったよ」の気持ちをもって1はてなスターをつけるハツ(心臓)の強さを身につけたい。

大喜利の正解

大喜利はたまに正解が出ることがある。唯一無二の解。これ以上のおもしろい回答は絶対に出ないだろうという、究極の回答。ひとが出すのを見ることもあれば、自分が出してしまうこともある。そういった「正解」を自分が出したとき、その正解はmy omoshiro memoryにいつまでも大切にしまっておくのだけど、昨日わたしはひさしぶりに正解を出しました。これです。

ひとによっては「そうか?」と思われるかもしれませんが、こんなものは主観でいいんだ、大喜利だし。

これが人生でふたつめの「正解」だった。初めて「正解」を出したのは、もう5年くらい前のこと。暇つぶしにそこにいたメンバーで大喜利やってたんだけど、「夜のヤクルトレディにありがちなこと」というお題に対して、「みるみる……」という回答を出したのが人生初の大喜利の「正解」だった。いまだにmy omoshiro memoryに大切にしまってある。

Twitterで孤独に戦ってきた大喜利を振り返ってみたのだけど、いいねやRTが多かったからといって必ずしも正解ではなかった。正解じゃなかったことだけはわかる。このへんの感覚の正体をきちんと知りたい。

積読こそが完全な読書術である

現代社会はすでに「積読環境」である、としたうえで、本との付き合い方について書かれたもの。タイトルでかなり期待していたのだけど、結論から言うと近年稀に見る大ハズレだった。

「繰り返しますが」や「先に述べた通り」という前置きが多用され、同じことが言い方を変えて平均34回書かれるので、読むのにかなりのストレスがあった。繰り返さなければ本書の厚さは3分の1くらいで済んだと思う。本文中に出てくる表現を借りるなら、この本自体が「契約どおりの出版点数をクリアするために通された企画に基づいて書かれただけ」なのでは、と思ってしまった。編集の手が入らなかったのだろうか。

第一章は「他律的積読環境のなかに、自律的な積読環境を作る」という提案こそあるものの、話はここからまったく前に進まない。読まなくても問題ない章だと思う。

第二章はバイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』から引いた内容が多く、おもしろくなってはきたのだけど、それでも「じゃあバイヤールの本読めば済むな」という章だった。この章のタイトルは「積読こそが読書である」なのだけど、別にそういう話は出てこない。

第三章からようやくタイトルに応じた話になってくるのだけど、そこに至るまでに111ページかかっている。きびしい。このあたりから「Evernoteを活用しよう」みたいな小手先のテクニック的な話も出てくるのだけど、それより先に「積読こそが完全な読書術である話をせんかい」と思ってしまった。

第四章は、最近気になっていたダニエル・カールマンの『ファスト&スロー』から「ファスト思考(システム1)」「スロー思考(システム2)」というシステムを持ち出してくるのだけど、なぜそれをわざわざ持ち出したのかは不明。第一章を言葉を変えて再掲しているような章だった。

趣旨としては、内容を完璧に把握して、しかも記憶し続けられるような「完全な読書」なんてできないんだから諦めろ、「不完全な読書」の程度を決めろ、その手始めとして気になった本を積極的に手元に集めろ、積読で構わん、それこそが現代の読書術なのだという話。この一文が、200ページに伸ばして書かれている。趣旨はおもしろいと思うけれども、ストレスの方が勝った。

「不完全な読書」の精度を上げるための読書の方法もいくつか触れられているのだけど、全体的な印象としては積読の定義をずらしているだけにしか思えず、タイトルが煽りすぎだと思った。根拠が乏しいまま結論だけが繰り返される。いろいろな書籍の紹介で肉付けしようとしているのだけど骨がないまま肉がつけられているのでつらい。

必要なところを取捨選択しながら読む速読の入門にお勧めできるくらいには無駄が多く、それが皮肉にも本書が勧める「積読」の一種にも繋がっているのだけはエスプリが効いている。これは純粋な皮肉です。

極めつけは、がんばって200ページ強読んだうえで「おわりに」に書かれていたことが最悪だった。「わたしは、『人間が積読をすること』が『完全な読書』をする方法であると主張したいわけではありません」というのが最後の最後に出てくるんだけど、じゃあ「積読こそが完全な読書術である」ってタイトルつけちゃダメだろ。嘘じゃん。ひさしぶりに得るものゼロの読書体験をした。

ダルゴナコーヒーをつくる

いま話題のダルゴナコーヒーをつくった。一度でもダルゴナコーヒーをつくったことがある方は、特にあまりうまくいかなかった方は察していただけると思いますが、以降きたない文章ときたない写真が載ってます。見たくない方はここでお帰りください。

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みんなわらってくらしてる

UNDERTALE」をクリアした。名作と言われているのは知っていて、3年くらい前にSteamで買ったのだけど、PCのキーボードでプレイするのがうっとうしくて放置していた。先日Switch1,000円弱になっていたので、改めて買った。

「記憶を消してまたやりたい」という感想をよく目にするので、どれほどのものかと期待していたのだけど、はたして期待以上だった。画面の雰囲気からか「MOTHER」と並べて讃えられているのもよく見るけど、個人的にはMOTHER以上だと思う。やさしいゲームだった。

内容は、おおまかに言えば地底(underground)での物語(tale)で、地底に迷い込んでしまったニンゲンの子どもが、モンスターだらけの地底世界をくぐりぬけ、地上に戻るというストーリー。5時間程度でクリアできた。

序盤、明らかに選択を間違えてしまった出来事があったのだけれども、どうすればよかったのかわからず、最後までずっと、心に小さなトゲが刺さったような感覚があった。ゲームなんだからリセットしようと思えばできたのだけど、どうしようもなさを抱えたまま最後まで進めてよかったと思う。後悔したままクリアするゲームもめずらしいような気がする。

ストーリー全体はもちろんのこと、何気ない台詞のひとつひとつがふいに涙腺を刺激してくる。最初に訪れる町で、なんてことのないキャラクター(名前すらない)がこんな会話をしている。不覚にもこの台詞で涙腺が急激に緩んでしまった。

*みんな わらったり ギャグを
 いったりして めのまえの
 もんだいから めをそらしてる

 たんちょうな まいにち
 じんこうみつどの じょうしょう
 ひあたりの わるさ

 わたしも そうやって イヤなこと
 わすれられたら いいんだけど
 おわらいのセンスがなくて。

*ちていのせかいには いろいろと
 もんだいも あるけど それでも
 みんな わらって くらしてる。

 なんでって?

 どうせ なにもできないんだから
 もんくいっても しかたないだろ?

先の見えない毎日だけど、目の前の問題から目をそらすな、正しく怒れ、批判をやめるな、もうそういうのからも目をそらしたい。わらったりギャグをいったりして、イヤなことわすれられたらいいんだけど。わらって暮らそうとするユーモアはなくしたくないなあ……。