拳で語り合っている

最近、Nintendo Switchを買って割とすぐにダウンロードしたストリートファイターのコレクションみたいなやつをやっている。ストリートファイターと名のつく格闘ゲームが12本ほど入っていて、僕は特にスト3をやることが多い。ちょっと前まで格闘ゲームをやる根気すらなかったのだけど、暇だから技の練習をしてみようかなくらいの感じで、10分ほどやってやめるということを1日3回程度やっている。

オンラインでも対戦ができるのだけど、こちらと相手の回線の都合によっては、非常にカクカクとした戦いになってしまう。買ってすぐにおこなったオンライン対戦がいずれもカクカクとしていて、こりゃゲームどころじゃないなと思って敬遠していた。それが最近、回線の相性がよいのか環境がアップデートされたのかわからないけれども、2分の1くらいの確率でスムーズに対戦することができるようになり、たまにオンラインで世界のどこにいるのかわからない相手と拳を交えたりしている。

とはいえ、2020年の3月に、ストリートファイターコレクションの、それもスト3を、オンライン対戦しようとしている人間なんて世界に4人くらいしかいないらしく、対戦で当たるひとが非常に限られている。僕は「r」という名前の日本在住なのか外国在住なのかもわからないひとと対戦することが多く、rさんは本命はケン使いなのだけど、最近の僕たちの対戦は「本命のキャラクター使うのもなんか恥ずいよね」みたいな域に入ってきた。rさんにケンを使われると僕は誰を選んでもほとんど勝つことができない。rさんもそういう、絶対に勝つような試合がおもしろくなくなってきたのだろう。

rさんは最近Qというキャラクターを練習しているらしく、Qになら勝てることがある。rさんがQを選んだときは、僕もそこに本命のキャラクターをぶつけるのは大人気ないなと思い、ユリアンという使い慣れてないキャラクターを選ぶことにしている。

このゲームは仕様として連続で3試合までしかできず、3試合終わると、またマッチングしない限りは同じひとと対戦できない。非常に過疎化が進行しているゲームなので、もう1回マッチングしようとしたら大抵すぐにrさんに当たる。6試合くらいやるともう僕のゲーム欲も満たされているので、電源を切ってやめる。

みたいな生活を最近ずっと続けているかのように書いたけれども、僕とrさんの仲はまだ3日目くらいだ。このゲームではプレイヤー同士の交流を図ったりすることはできないので、拳で語り合う必要がある。僕たちは拳とか脚とか波動という謎の概念の塊とかで、この3日くらい語り合ってきた。向こうも「おっ、お前か」くらいには思ってくれてるんじゃないかと思う。

最近コロナとかなんとかで連日強い概念にさらされており、心が結構すり減ってきたのがわかる。回復する手立てももはやなく、ましてやそれがスト3ごときで癒されることもないのだけど、それでもこの超過疎化したゲームで世界のどこかにいる4人くらいとたまに対戦して、特にrさんという拳で語り合える存在ができたのは、ほんの少しの慰めにはなっている気がする。たぶん2か月後くらいには忘れてそうだけどあんま忘れたくないな、折にふれて思い出したいなと思って、こうやって書き留めている。

オンライン飲み会

先日、人生初のオンライン飲み会をした。知見が得られたのでシェアします。

<ツール>

  • Zoomに対抗してGoogleHangouts Meetが無料で使えるようになったとのことで試してみたけど、G Suiteに登録、承認(これがかなり手間)を経てようやく使えるようになり、しかも使ってみたら画面が頻繁に話者に切り替わる仕様のため、「うーん」となった
  • Zoomが使われているの、使いやすいからだということがよくわかった、Zoomを使いましょう

<メリット>

  • 比較的実施日時の調整が容易
  • 好きなメンバーだけで実施できる
  • 終電を気にしなくていい(デメリットもあり)
  • お金を気にしなくていい(デメリットもあり)

<デメリット>

  • 特に同居人がいる場合、どこでやるか問題がある
  • はじめましてくらいの関係性だと、最初の1時間何を話すのか問題がある(酔えばどうでもよくなってくる)
  • 時間の制限がないため、やろうと思えば永遠に飲むことが可能
  • 酒があるだけ飲めるので、飲みすぎることが可能
  • 上記ふたつの実績を解除した際、記憶が残らず、二日酔いになる

箇条書きするとデメリットの方が数は多いけれども、メリットの4つはいずれもひとつひとつの要素から得られるものが大きく、普段の飲み会がいかに制約を受けていたのか気付かされる。制約から解放された飲み会は、しかしながらタガを外すことも容易になるため、翌日に後悔する類の飲み方をしてしまいがちになることがわかった。後半の記憶がない。前半~中盤ももはや断片的な記憶しかない。

たまに、オンライン飲み会をやってみた的な記事(たいていは何かのPRにつながる記事)を見かけるが、ああいった「アウトプットすることが決まっている飲み会」くらいの方がいいのかもしれない。そうじゃないと理性が簡単にどこかに行ってしまう。

あと、これは個人的なやつかもしれないけれども、「飲みながら話すのはいいけど、画面の向こうでいろいろ食べるのはしたないのでは」という気持ちがあり、食べるのをかなり抑えたところ、アルコールが非常に残ったという結果になってしまい、もっとガツガツいく必要があるなと思った。「餃子焼きます、見ててください」というところくらいから始めるとよいのではないか。

lost in translation

「雨の日だより」で映画『ロスト・イン・トランスレーション』を扱って以来、「lost in translation」という言葉が時おり頭をよぎるようになった。翻訳する際に、微妙なニュアンスが損なわれてしまうといった意味。これは翻訳に限らず、言語を用いるいたるところで起こっているのではないか。

今日昼間に虹を見たんだけどものすごくきれいだったよ、と言っても、どのようにきれいだったのか伝わらない。同じものを見てもきれいと思うかどうかはひとそれぞれ。結局、言語を使って全員が同じ世界、同じ風景を見ることは不可能で、いろいろなニュアンスを取りこぼしながらやりとりをするしかない。

いわゆる「作品」を作っているひとに説明を求めたときに、「言葉で言えるくらいなら作品を作ってないと思う」と返される、ということは多々ある。そう言ってしまう気持ちはわかる。その意見も確かに正しい。でもそれと同時に、自分の作品について説明できないのはどうなのか、とも思うようになった。「こういうことを考えながら作った」とか「こういう出来事が作品づくりの発端となった」とか、そのくらいは言えるはずで、それさえも放棄してしまうのはどうなのか。lostするのが怖いからtranslationをしませんと言っているように感じる。

lost in translationであることを受け入れながら、それでも自分の言葉を尽くしてやっていくしかないんじゃないか。作品をつくったんでそれ見てくださいって、その作品がそこまで万能か? とまで言うとただの悪口だけど。作品をつくった後で、それでも言葉を尽くすことの方が尊いんじゃないか?

最近、作品を発表したあとでそれを何度も宣伝するひとの見方が変わってきた。たくさん売れてお金がたくさんほしいというよりも、純粋にまず作品に触れてほしいと思ってることがわかってきたからだ。結局それが「売れてほしい」ということにもつながるんだけど。軽い気持ちかどうかくらい、宣伝の仕方ですぐにわかる。軽い気持ちじゃないことくらい、作品に触れればわかる。受け手の翻訳の仕方に多少のニュアンスの取りこぼしがあろうと、ほんとうに大事なことはちゃんと伝わる。いいものを作って、それをさらに言葉で届けようとしているひとは、lost in translation程度のことになんかビビってない。その態度を信じる。

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

ロスト・イン・トランスレーション [DVD]

  • 出版社/メーカー: 東北新社
  • 発売日: 2004/12/03
  • メディア: DVD
 

自家中毒

寄稿した文章の載ったつくづく休刊記念増刊号「自家中毒」をいただいた。

少し厚めの封筒を開けると、立派な冊子が出てきた。思ってた以上に立派でちょっと笑ってしまった。これを300円で売ってるのか。ていうか、「PR誌だから」という理由で創刊号を買ったひとにタダで配ってるのか。こんなことされたら自費出版のハードルめちゃくちゃ上がるじゃないか。プロの本気のアマチュア活動ってほんと恐ろしいな。

はじめに書店の方々の感想文がまとまって載っているのだけど、ほぼ全員、意訳すると「これ儲ける気ないだろ」みたいな手厳しいことを書いてて、また笑ってしまった。ただそれは決してダメ出しという意味合いではなくて、「……ま、俺はこういうの好きだけど」という愛に裏打ちされたものだ。「しょうがねえなまったく」と苦笑しながら売り方を考える書店の方々を想像する。

わかりやすさが必ずしも正しいわけじゃない。混沌を愉しめるひとにとっては文字どおり愉快な雑誌だと思うけど、そりゃまあ、売る方はムズいですよね。そういう書店の方の生の声が聞けた感じがしておかしかった。そして、それをそのまま掲載する金井さんもおかしい。全部褒め言葉です。

「課題図書」への書評は、いずれも創刊号を読みたくなるような文章だった。こだまさんが失礼なことを書いたとTwitterに書いていたけど、失礼というよりもライバルへのエールのように思えた。

「つくづくの読書感想文」は、これまで存じ上げなかった方のなかでは、伊瀬ハヤテさんと岡村響子さんの文章がよかった。合同誌「でも、こぼれた」で僕のマリさんが書いていた文章が「書くことで呼吸ができるようになった話」だったとすると、伊瀬ハヤテさんの感想文は、「読むことで呼吸ができるようになった話」のようだ。岡村響子さんの文章はとても的確でわかりやすかった。「つくづく」が昔のインターネットみたいという指摘は非常に頷ける。この一言に出会えただけでも、増刊号を読む価値があると思った。それに比べて俺の文章は一体……

高石さんの文章は、いまの僕にものすごく刺さった。好きなことを仕事にしてきたはずなのに、いまではもう、好きだったはずのことが嫌いになっている。それどころか、なにが楽しいのかさえわからなくなってしまっている。感受性を擦り減らしてきた割には大して稼げてもいない。長年の仕事を経ていま手元に残っているものはなんなのか、もともと好きなものはなんだったのか、ひとつひとつ確認しているところだ。そんな中、高石さんが「雑誌のように生きたい」とシンプルな言葉で目標を言い切ってしまえるところに、一種の憧れを感じる。それに比べて俺は一体……

わかしょ文庫さんのエッセイは、小6のころの自由研究の話。記録には残らなかったけど記憶に残り続ける話だ。最優秀賞に選ばれなくても、大人たちに理解されなくても、結局いまこうして文章になって昇華されている。変に賞を取らなくて、記録にならなかったおかげで、こういう文章に出会えたのはありがたい。

 

ここまで書いて2週間くらい寝かせていた。アップするか迷った。理由としては、寄稿した手前、「身内の褒め合い」みたいに思われると嫌だなと思ったからだ。全然身内じゃないのだけど。でも結局アップすることにしたのは、好きなものを好きということのよさを実感しているからだ。それと、これは伊瀬ハヤテさんもツイートされていたけど、世に出したものを受け止めてもらえるということがどういうことか実感しているからだ。そこは忖度や馴れ合いなしでいきたい。……いや、忖度あるのかな。感想は個人に伝えればいいわけだし。とにかく、おもしろくないのにおもしろかったとは言いたくない、言わない。要するに、「自家中毒」おもしろかったんですよね、俺の文章以外…………

「つくづく」増刊号に寄せて

寄稿させていただいた「つくづく」増刊号が、先日の文学フリマ京都から頒布された。僕は文章を書いて送っただけで、それを本にするためのもろもろの手続きも、それに伴う諸経費の捻出も、実際の販売も、編集者の金井さんが一手に引き受けてくださっているので、正直言って楽なポジションであることこの上ない。金井さんにかける言葉が「ありがとうございます」なのか「おめでとうございます」なのか「お疲れさまでした」なのかわからない。たぶん、全部の言葉を伝えるべきなのだろう。

12月、高石さんと僕のマリさん目当てで下北沢のトークイベントに参加し、そこで「つくづく」創刊号を購入、書籍とイベントの感想をTwitterやブログにパラパラと書いていた。それが金井さんの目に留まり、DMで今回の執筆依頼が届いた。感想をツイートした2時間後くらいには依頼が来ていた。その展開の早さ(速さ)については、増刊号に書いたのでぜひそちらでお読みください。

今回、非常におもしろい経験をさせていただいた。原稿を書き、三度推敲し、送り(ここまで半日)、後日ゲラが届き、「ゲラ!」と思い、五度読み返し、1箇所だけてにをはを直して戻した(これも半日)。ゲラで対峙した「ちょっと前に書いた自分の文章」は、語弊を恐れずに言えば、よさがわからなかった。悪いものを適当に書いて出したわけではないし、書いたものに不満が残るまま出したわけでもない。「現時点で書けるいいものにしよう」と思って書いた。現在進行形で咀嚼しているものごとについて書くのは、良し悪しの判断が難しい。時間を置いて読み直すことで、そういったことを実感できたのがおもしろかった。

書き直せばこれよりもっとおもしろいものが書ける! みたいな感覚もなく、「これがいま出せるベストなんだ、受け入れろ」と思った、思えた。何度書いても同じような質感の文章しか浮かばない。それで、腹を括ることにした。

僕が体験したのはほんの数千字程度のレベルだけど、1冊の本を執筆するひと、雑誌にコラムなどを定期的に掲載するひと、新聞に記事を書くひと、その他もろもろ、みんなどっかで腹括ってんだな、と実感した。世に出てしまうと修正が難しい媒体に文章を書き続けているひと、みんな尊敬する。金井さんの仕掛けた自由研究で、僕までもが思いもよらぬ自由研究をさせてもらえたことに感謝しています。

「つくづく」増刊号の現物を手にして、さらに時間を置いて自分の文章を読み返したとき、どういう印象を持つのかたのしみ。「へえ〜」くらいは思いたいな。今もまだ自由研究の途上にいるので、感覚に客観的になれない。平べったい言葉で言うと、今「わー」って思ってます。本になってうれしいのでみんな買って読んでー。わーー。

死にたさと真逆の夜

爪切男さんと担当編集の高石さんのトークイベントに行った。

福岡(というか東京から離れた地方)でのトークイベントのメリットだと思うのだけど、「東京ではできない話」が聞けることが多々あり、今回もそういった話が聞けてよかった。「ノーツイートで」と頻繁に言われていた話が多かった。書ける範囲でいうと、爪さんはもういまやオナニーを超越したやつをやっているということがわかった。人斬り抜刀斎と呼ばれた緋村剣心明治維新後は不殺(ころさず)を誓い、逆刃刀を握るようになった境地もこういう感じだったのではないだろうか。

高石さんのご配慮もあって、イベント後の打ち上げにもお邪魔させていただき、主催のmeldの方々にも「誰お前」みたいな感じではなくウェルカムな対応をしていただいてありがたかった。meld代表の難波さんという方の熱意と知識、そしていっしょにイベントを運営されていた和泉さん、中村さんという方のおもてなし力がすごい。今回のイベントで初めてその存在を知ったのだけど、福岡のおもしろいことを増やしてくれそうな印象がある。「福岡を変えてえ!」みたいな大風呂敷を広げるんじゃなくて、「おもしろいことがちょっとずつ増えたら、結果的に今よりもっとおもしろい街になるんじゃないの?」くらいのスタンスで、着実におもしろいことを増やそうとしているのかな、と思った。いいイベントでした。福岡で開催してくださってありがとうございます。

打ち上げの場では、「イベントでも言えないようなこと」がいろいろ聞けて、笑いすぎで頬の筋肉がつりかけた。爪さんと難波さんのハイコンテクストなやりとりがすごい。このひと本当にめちゃくちゃ爪さん好きなんだろうなというのがわかったし、そういうのはイベントの空間とか空気にも出ますね。

爪さんの話を聞いてると、『死にたい夜にかぎって』っていう本書いときながら、このひとは死にたい夜とかないんじゃないかと思ってしまう。どういうことがあってもおもしろがる力がすごい。一言で言えば「たくましい」ということになるんだろうけど、そんなものが一言で言えてしまっていいのか。

あと、爪さんは自分のやさしさを否定されていたけど、やっぱり爪さんはやさしいひとなんじゃないかと思う。僕はやさしさって「適切な距離」のことだと思っていて、その適切な距離を即座に判断するのが、爪さんは抜群にうまいんじゃないかなと思った。

1次会が終わり、「ラーメンでも行きますか」ということになって男5人で長浜ラーメンへ。飲み会の〆のラーメンがひさしぶりだったうえに、団体でラーメン屋に入るのもひさしぶりで、静かに「エモい……」と思っていた。死にたさと真逆の夜でした。

2019年読んでよかった本

今年は例年よりは本を読んでいたらしく、いいものに出会うことが多かったなあと思ったのでまとめておきます。

マンガ

我らコンタクティ

アフタヌーンでの短期集中連載を、こちらも夏に短期集中で読んで、心を鷲掴みにされた作品。1巻で完結するのも含めて、ひさしぶりに自分にとってのパーフェクトな作品に出会ったという感じ。

我らコンタクティ (アフタヌーンコミックス)

我らコンタクティ (アフタヌーンコミックス)

 

ドラえもん 0

ドラえもんを知ってるひとは全員必読だと思う。なにがどういいのか説明できないけど、歴史の始まりを垣間見ることができるのがいいのかな、とにかく読んでよかったランキングにいきなり食い込んできた。 

ドラえもん 0巻 (0巻) (てんとう虫コミックス)

ドラえもん 0巻 (0巻) (てんとう虫コミックス)

 

ビジネス書・自己啓発本

図解モチベーション大百科

今年の正月に読んだのだけど、モチベーションを上げる/下げない具体的な方法が山ほど乗ってて実用的だった。

図解 モチベーション大百科

図解 モチベーション大百科

 

 天才たちのライフハック

さくっと読めておもしろかった上に、生活に取り入れられるアイデアもいくつかあってよかった。これと「図解モチベーション大百科」読めばやる気は出るはず。

1日ごとに差が開く 天才たちのライフハック

1日ごとに差が開く 天才たちのライフハック

 

 「ついやってしまう」体験のつくりかた

あらゆるジャンルを総合して、今年いちばんよかった。迷うことなくこれが今年の第1位。

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ

「ついやってしまう」体験のつくりかた 人を動かす「直感・驚き・物語」のしくみ

 

逆境を「アイデア」に変える企画術

イデア本大好きなんだけど、「ついやってしまう」~に次いでおもしろかった。Kindle Unlimitedで読んだので、紙の本できちんと買いなおしたい。

誰も教えてくれないイベントの教科書

来年は自主イベントを手がけていきたいなーと思っていたところでこの本に出会い、非常に有益だった。

誰も教えてくれないイベントの教科書

誰も教えてくれないイベントの教科書

 

自分の仕事をつくる

もはや古典になりつつある本なので、大して期待せずに読み始めたら大当たり。今年読んでよかった本ベストスリーに入る本。

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

自分の仕事をつくる (ちくま文庫)

 

ゲームの企画書①③

②は単に未読なだけ。ものを生み出すひとの創意工夫とか知恵とか情熱とかがギュッと濃縮されていて読み物としておもしろい上に、インタビュアーの方の質問設定が非常に上手くて、インタビューの心得本としてもめちゃくちゃ役に立つ。

勝間式 超コントロール思考

勝間女史、すぐにマニアックにいろいろを試すのでついていけないところもあるけど、そのエッセンスがまとめられててお得。最近の勝間さんはマイペースな感じがしていいですね。

勝間式 超コントロール思考

勝間式 超コントロール思考

 

エッセイ

完全版社会人大学人見知り学部卒業見込
天才はあきらめた

オードリーの若林さんと、南キャンの山里さんの本。併せて読むことを強くお勧めします。ふたりとも今年結婚して、めちゃくちゃうれしかった……。ふたりの見方が変わりました。

完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)
 
天才はあきらめた (朝日文庫)

天才はあきらめた (朝日文庫)

 

死にたい夜にかぎって

単行本で読んだ方も、ぜひ文庫版を手に取って、できれば買ってほしいけど、買わなくていいやと思う方は書店で立ち読みでいいので文庫版のあとがきを読んでほしい。グッときたらそのままレジに持っていってるはず。 

死にたい夜にかぎって (扶桑社文庫)

死にたい夜にかぎって (扶桑社文庫)

  • 作者:爪 切男
  • 出版社/メーカー: 扶桑社
  • 発売日: 2019/11/17
  • メディア: 文庫
 

合同誌

でも、こぼれた

参加している作家陣全員すばらしいという奇跡の合同誌なんだけど、中でも「僕のマリ」という作家の存在を知ることができたのは、2019年の大きな収穫のひとつ。

契れないひと

近所の公園に、朝、宗教のひとたちが立っている。女性2人組で、経典のようなものを読みながら、図を書いて解説している。真剣に聞いていないので教義はよくわからないけど、聞こえてくる単語が「堕落人間」とか「神」とか「真理」とかで、トバしてんなあと思う。中でも圧倒的に「堕落人間」の数が多い。

最近、聖書なのかなんなのかわからないけど、23人組でそういうのを配っているひとをよく見かけるようになった。福岡だけの特徴なのか、全国的にそうなのかよくわからない。何教かも知らない。ただ、クソ暑い夏だったりクソ寒い冬だったりに、彼らが路上でずっと何かを広めようとしている姿を見るにつけ、「あんたらの神様ヒドいな」と思う。

修行の一環なのだろうか。ノルマみたいなのがあるのだろうか。信者を増やすと得られる善行ポイントみたいなのがあるのだろうか。なにもなくて、本心で、善かれと思ってやっているのだろうか。それに引っかかるひとがいるのだろうか。「今日も誰も引っかかりませんでしたぁ……」と言って、教団から「コラー!」とか言われるのだろうか。

たかたけしさんの『契れないひと』を読んだ。あのたかさんが、漫画の連載をするというのに驚いた。あと、たかさんの「たか」が名前じゃなくて苗字の方だったことにも驚いた(むしろこっちの方が驚いた)。以前ブログなどにアップされた漫画をいくつか読んだことがあったのだけど、僕はどちらかというとたかさんの漫画よりも文章の方が好きだった。たかさんの文章には、ユーモアと哀愁とやさしさと強さがある。漫画だと、せっかくのユーモアと哀愁とやさしさと強さがどこか薄まってしまうような感じがした(これは力量とかそういうのではなくて、媒体の性質の違いによるものです)。文章と同じくらいのユーモアと哀愁とやさしさと強さを感じたければ、かなりのページ数が必要になる。

『契れないひと』でそれが叶った。たかさんが過去実際に経験されたという訪問販売をモチーフにしたこの漫画は、契約が1件も取れない野口舞子という女性が主人公。契約が取れず、上司に怒られたり慰められたりしながら、日々がんばっている。ある種のたくましさを身につけながら、断られたり断られたり契約が取れたりやっぱり断られたりする。

たかさんの絵は喜怒哀楽の「怒」や「哀」の表現がかなり独特で、どうやって生きてたらこういう表現ができるようになるのかと思う。ひとに殺意を覚えたとき、苦しんでいるとき、怒られているとき、みな、顔が蓮コラみたいになる。顔が蓮コラみたいになることある? 喜も怒も哀も楽も、メーターがかなり振り切れている(喜や楽はそんなに多くないですが……)。ここまで振り切れていると全く自分事のようには思えなくて、完全にフィクションとして、娯楽として読んでしまう。ここに、たかさんのやさしさを感じる。

ダメだったり怒られてばかりだったりする人生を全く否定しないどころか、肯定してくれるような気になる漫画なんだけど、ギャグです、笑ってやってくださいという体が強いので、押し付けがましさがない。笑ったりキモいなーと思ったりしながらも、なんか知らんけどいつの間にか野口舞子にグッときている。僕はそういうやさしいユーモアにめちゃめちゃ弱い。ギャグと見せかけてめちゃくちゃやさしい漫画だ。

5巻くらいで野口舞子はどうなってるんだろう、と思う。契約はどれくらい取れてるんだろうか。相変わらず怒られてばかりなんだろうか。怒られてばかりなんだろうな。それでも、1巻と違うところに確実にいるんだろうな。野口舞子がどうなっていくのかが見たい。できるだけ長く続いてほしい。なんならドラマ化されてほしい。

近所の公園に立つあのひとたちにも、経典じゃなくて『契れないひと』を読んでほしい。「堕落人間」みたいな言葉で簡単に片付けないでほしい。神とか真理とかを求めるんじゃなくて、苦しくてもつらくてもみにくくても、生活をやっていってほしい。現実から逃げてない漫画の方が、経典よりもよっぽど学びがあるんじゃないか?

契れないひと(1) (ヤンマガKCスペシャル)

契れないひと(1) (ヤンマガKCスペシャル)

 

まばゆい

先日のトークイベント以来、その作品を読みたいと思うのはどういうメカニズムなのか、ということを考えている。著者の名前も知らなければ作品も知らない、存在していることすら知らないものは、読みたいと思うことができない。まずはなにかを知っている必要がある。

もともと著者を、処女作を発表する前から知っているというケースは、SNSのおかげで最近少し増えたけど、それでもやはりレアだ。どこかでなんらかの形で作品に触れて、そこから著者を知るということの方が多い。

僕のマリさんのことは、「でも、こぼれた」という合同誌で初めて知った。そこで書かれていた『健忘ネオユニバース』という作品が非常によくて、その後、販売されている個人誌は買えるだけ買った。ハマった、というほど無条件に盲目的に好きになっているわけではないと思うけど、彼女の作品がなにかを呼び起こす、そのなにかを知りたくて、読めるものはできるだけ読んでいる。

これは、おもしろいと思う作家の方全員に共通すると思うのだけど、感覚を言葉に置き換えるのが非常にうまい。固有の体験や感覚を、わかりやすい言葉と、読みやすいリズムで描く。固有の体験であるはずなのに、そこにはなんらかの普遍性が通底していて、それが読者に刺さったり刺さらなかったりする。僕のマリさんも例に漏れず、それがうまい。

東京から帰ると、ポストに僕のマリさんの新作『まばゆい』(と、悪口を書いた紙)が届いていた。発行人の関口さんは仕事が早い。ありがとうございます。悪口を書いた紙を最初に読んだ。これはひとえに僕の性格の悪さに起因するのだけど、印字された悪口を読むのはたのしい。そこにはなんらかの普遍性が通底していて、それが読者に刺さるのでありましょう……。

『まばゆい』には3つの短編が収められていた。創作なのか実話なのか、そのあいまいな感じがよかった。つくり話でも、そこに滲み出るなにかは、自分にとってめちゃくちゃ大切なことだったりする。書き終えて気付く。書き終えても気付かず、数年後に読み返して気付くことだってある。それは読み手側にはわかるはずもないのだけど、たぶんそこに通底するのであろう普遍性が、胸を打ったり打たなかったりする。『まばゆい』は現在もPDFで売ってます

今回の『まばゆい』は、完全な姿ではないらしい。春に完全版が出るという。僕のマリさんは「いつも、最高のものと思えるものを出したいんです。今度出す本も最高のものにしたい」と言っていた。僕のマリさんにいまどういった「最高」が見えてるのかわからないけど、春にはおそらくタイトル通りの本が生まれているのではないかと思う。それがまた、ひとりでも多くの方に刺さったらいいですね。

lighthouse24.thebase.in

東京日記

弾丸ツアーで東京に行ってきた。B&Bで行われた「趣味と本業と自由研究~個人誌で未来を切り開くには」というトークイベントに参加するのが主な目的。イベント終了後、登壇された編集者の高石さんと中華をつつきながら小一時間ほど話をさせていただいた。こっちの方が主目的だったかもしれない。

イベントは、編集者の金井悟さんが自費で出版された雑誌「つくづく」に端を発して、「商業誌ではなく個人誌が未来を切り開くのではないか」というテーマで作家・編集者がそれぞれの立場から話すというもの。5人の登壇者がいたのだけど、全員見事に立ち位置が違って面白かった。話が散らかりつつあると思ったら、週刊文春などの編集をされていた宮田文久さんが軌道修正、ライターの宮崎智之さんが文学史的な背景などを補足、高石さんは「編集者」という立場から、僕のマリさんは「作家」という立場から作品をつくることについて話し、金井さんはそれらすべてをいい意味で泳がせている、という印象。途中、宮崎さんが白熱して他の方の話を遮って自分の話に持っていくことが何回かあり、「このひとの話をもう少し聞きたかったのに……」という気持ちになったのが残念だった。

トーク全体の感想として「未来を切り開かないといけないか?」と思った。それぞれがそれぞれの立場でやるべきこと・やりたいことを淡々とやっていくことの方が重要で、それが結果的に未来を切り開くこともあれば、淘汰されることもあるのではないだろうか。このあたりは宮崎さんの憤りと真逆の考え方だと思う。

今後なにをやりたいかという質問に対して、僕のマリさんが「書くことと仕事との両立ができている今の生活がずっと続いてほしい」と言っていたのが印象的だった。自分が今いるところをしあわせと思うのは実は難しいと思うのだけど、僕のマリさんはそのことを自覚していて、そのしあわせをきちんと続けていきたいと宣言しているように感じた。

高石さんは「殺伐とした文学フリマをやりたい」と言われていた。常に闘いの中に身を置いていたいと言っているかのようだ。カッコいい。これは他の登壇者も同意しており、文フリの空気を知らないのでよくわからなかったけど、いまの文フリ(の会場の空気)にどこか物足りなさがあるのは事実なんだろう。

イベント終了後、高石さんが「チャーハン食いに行きましょう」と誘ってくださったのだけど、お目当てのお店が休みで、台湾料理屋に入ったところ、チャーハンがなかった。ちまきみたいなやつしかなかった。4品くらいおかずを頼んでつつきつつ、自己紹介などをした。高石さんは「トークダメでした……」と反省されていたけど、僕は、なにを言うかと同じくらいなにを言わないかも重要だと思います、言うことと言わないことを選んでいる姿がよかったですみたいなことを伝えた。寡黙であればいいわけではない(だってトークイベントだし)。だからといって、思いつくままにほいほい喋るのがいいのかというと、決してそうでもないと思う。高石さんが話された言葉の中には、聞き手に確実に伝わってくる重さと鋭さがあった。核心をついたドキッとする質問もされていて、そういう言葉がパッと出てくるのがすごい、と思った。

個人的には、バランスよくトークが回るような立ち位置にサッと入られた宮田さんの話をもう少し聞きたかった。交通整理してくださったおかげでかなり面白いイベントになったけど、宮田さん個人の話をそういえばあまり聞けてないなというのが残念だった。

それらもすべて泳がせる金井さんの手腕。「つくづく」という雑誌がどうやってできたのかを態度で物語っていたように感じた(実際はめちゃくちゃ動かれていたのだろうと思いますが……)。

翌日(今日です)、僕のマリさんがお茶しませんかと誘ってくださったので、僕のマリさんの職場でお茶。要約すると「おじさんは若い者を応援してます」というようなことを伝えた。あまり時間がないながらも、前日のイベントで聞きたかったのに聞けなかったことが聞けた気がする。

話しながら「俺は自分より若い世代になにかを託したいと思ってるんだろうか、そうじゃないといいな」ということを考えていた。下の世代は自分の人生の敗者復活戦のために存在しているのではない。期待をするのは勝手だけど、期待に責任を抱き合わせて、自分ができなかったことを半ば押し付けるようになったら、もう完璧老害だろうなと思う。結局、それぞれがそれぞれの立場でやるべきこと・やりたいことを淡々とやっていくしかない。あこがれたり期待したりするのは楽しいけど、それはそれとして、己のことをきちんとやっていくしかないですね……