パーティー

高野雀さんの『After the Party』を読んだ。

ものすごいものを読んでしまった。内容としては、199510月、まだ阪神淡路大震災の爪痕が残る神戸に、ふたりの女子がクラブに遊びに行くという話。20ページとは思えない濃密さで、それはおそらく全ページに入っている注釈のせいでもあるのだろうけど、いまのこの時期に読むと、作品全体が心の奥底にめちゃくちゃ響いてくる。

ここをお読みのみなさまにはぜひこの作品自体をご購入いただき、こんな僕の駄文なんか読まずに、まず作品に触れてほしいと思う。なので以下は実際に『After the Party』を読んだ方と、作者の高野さんだけが読んでくれるとうれしいなと思いながら書きます。

 演劇をよくご覧になる方は、チェルフィッチュという団体の『三月の5日間』という作品をご存じかと思うのだけど、『After the Party』はこの『三月の5日間』のような凄味がある。『三月の5日間』は文字通り三月のある5日間、ラブホで過ごした男女のエピソードを中心にした作品で、その5日間というのが、イラク空爆が始まった日を含んでいるところが肝となっている。つまり、片やラブ&ピースみたいな5日を過ごしている一方で、世界のどこかでは空爆が始まっているという話で、それがダラダラとした喋り言葉とダラダラした身体によって綴られるところに、演劇史的なエポックメイキングがあったのだけど、そこはまあいまはいいです。「ラブホでセックスしまくってる」という状況と「空爆が行われている」という状況とが並立できる世界の歪な感じ。歪なんだけどそういうことって確かにあるよねという現実味。平和と混沌が同居する違和感が『三月の5日間』には通底しているのだけど、『After the Party』のシチュエーションもまさにそう。クラブに遊びに行っている女子ふたりは平和を取り戻しつつあるのだけど、街はまだどこか混沌としている。

それってよく考えると、まさにいま、リアルタイムで僕たちが経験しているやつだ。日に日に日常が混沌の方に進んでいるにもかかわらず、僕たちは相変わらず仕事に行ったり買い物に行ったりしている。いまどこにいるのか、実はよくわかっていない。自分はとりあえず混乱していないと思っているけど、それ自体もう認識がずれているのかもしれない。後から思い出してみると、結構テンパってたと思うかもしれない。日常と混沌の区別がつかなくなりつつある。

After the Party』は阪神淡路大震災の後の神戸を思い出すという形で描かれていて、長い年月が経ったからこその客観視がはたらいている。建物も文化も僕たちの年齢も、あれから25年経っているのだから当然変わっていて、注釈でそれを突っ込むことで客観が得られている。『After the Party』というタイトルが指す「Party」とは、作中に出てくるクラブイベントのことなのだろうけど、語弊や誤解を恐れずに言えば、震災という混沌も指しているのではないか(災害をパーティーになぞらえるのは不謹慎と思われるのは承知だけれども)。そう考えると、この作品が「朝が来る」というシーンで終わることや、「震災から25年も経つと、ちゃんと過去のこととして捉えられる(=注釈で突っ込める余裕がある)」という事実自体に、一種の希望を感じてしまう。

いま、日常が日々少しずつ混沌に侵されている中で、『After the Party』のおしつけがましくなく描かれた希望が、心の奥底にめちゃくちゃ響いてしまった。当初はそんなことを想定して描いたわけではないと思うけれども、tofubeatsの『朝が来るまで終わる事のないダンスを』が風営法に対するメッセージソングに読み換えられてしまったのと同じように、『After the Party』だって、いまを生きる僕たちの希望として読み換えてもいいんじゃないだろうか。こう読み換えてしまうこと自体、混乱している証左なのかもしれないけれども。