先日、6日ほど実家に滞在することになり、意を決して押し入れの大片付けを行った。高校のころからある種の「作品」をつくり続けており、その資料やら何やらが大量に眠っているのを、ほぼすべて開封して確認して仕分けして体系立てて整理した。片付けそのものも体力的にしんどかったけれども、それ以上にしんどかったのが、過去の自分に向き合う作業だった。

過去の自分に向き合うつもりで片付けを始めたわけではないので、これは大きな誤算だった。資料の端々から垣間見える、若い自分の若さと青さと未熟さにすっかり当てられてしまった。あの頃は確かに熱があって、衝動と勢いが抑えきれずにいた。それに反比例して、経験がなかった。結果、未熟さが作品となってあらわれる。この歳だから言えるけど、若いころの自分が作品にしたかった「なにか」なんて、実は特別でもなんでもない。そう思えるようになった自分に、老いを確実に感じる。

あのころは、自分より上の世代になにを言われようと表現したいことがあった。自分だけの固有の感性を信じて、自分にしか生み出せないものをつくっていた(つもりになっていた)。はたしてそれはしあわせなのか? と思う自分と、ある種のうらやましさを感じる自分がいる。過去の未熟な自分の熱が、いまの自分を責める……とまではいかなくとも、過去の自分に「お前すっかり丸くなったな」と言われているようには感じる。

ここ5年、というか人生の伴侶となるひとと出会えて以降、そんな自分はすっかり牙を抜かれてしまったようだ。それはまったく悪いことではない。むしろいいことだと思う。作品なんかつくらなくてもいい、穏やかなしあわせを手に入れたってことなんだから。この状態をことのほか気に入っている。足るを知った。これ以上なにを望むというのか。

若いころの自分が作品にしたかった「なにか」がなんだったのか、いまなら一言で言える。それは「現状への不満」だ。自分の思い通りにならない状況、環境に抗いたい。あるいは肯定できるようになりたい。そのためのプロセスとして、作品づくりがあった。現状への不満なんて、固有でもなんでもない。みんなそれぞれ持っている。そのことをずっと認められなかった。

いまはもう現状に満足しているのだから、作品をつくれなくなっているのはまったく不思議じゃない。むしろ、あのころなにがそんなに不満だったのかとさえ思う。Twitterを見ると(最近あまり見なくなったけど)、人々が毎日なにかに怒っていて、時には仮想敵を用意してまで怒りをぶつけている。そういった状況にさえもはや不満はなく、「ああそうですか」と思って距離を取っている。先日ある方が「webはもう好き勝手吐き出す場ではないと思っている」と言われていて、認めたくはなかったけどその通りなんだろうなと思うようになった。それは不満と言えば不満だけど、もう諦めで処理できる。

むかしの自分だったらこの不満をもとに、SNSにまつわるなにかを作品にしたかもしれないけど、いまはもうそんな気がまったく起こらない。若くて青かった自分に「だせえ大人になったな」と言われそうだ。そんな牙要らんだろ。もういい大人なんだから。片付けをしながら、なぜかそれを認めたくなかった。