スターオブスターオブババア

はてなブログには「はてなスター」というものがある。はてなブログ版「いいね」みたいなもので、はてなのアカウントさえ持っていれば、無課金でいくらでも星をつけることができる。

Twitterで「めちゃくちゃいいね」と思っていても1いいねしかつけることができないのだけど、はてなスターはいくらでも星をつけることができるので、逆に1はてなスターというのは大してよいと思っていないのではないかみたいな気持ちが働くのであろう、スターオブババアさんという熱心な読者の方にいたっては、「3はてなスター」がデフォルトになっている。

要するにはてなブログでは「いいね」がインフレしているのだ。スターオブババアさんのはてなスターにいたっては、3で割ってカウントすることにしている。記事によって3〜5スターを使い分けているのが見られるけれども、3〜5いいねではなく1〜1.7いいねくらいの気持ちで受け止めている。

僕もついついやってしまうので気持ちはわからなくはない。過去にはスターオブババアさんのブログに300くらいはてなスターをつけたこともある(リンク先の記事はとてもよい内容です)。今後は「よかったよ」の気持ちをもって1はてなスターをつけるハツ(心臓)の強さを身につけたい。

大喜利の正解

大喜利はたまに正解が出ることがある。唯一無二の解。これ以上のおもしろい回答は絶対に出ないだろうという、究極の回答。ひとが出すのを見ることもあれば、自分が出してしまうこともある。そういった「正解」を自分が出したとき、その正解はmy omoshiro memoryにいつまでも大切にしまっておくのだけど、昨日わたしはひさしぶりに正解を出しました。これです。

ひとによっては「そうか?」と思われるかもしれませんが、こんなものは主観でいいんだ、大喜利だし。

これが人生でふたつめの「正解」だった。初めて「正解」を出したのは、もう5年くらい前のこと。暇つぶしにそこにいたメンバーで大喜利やってたんだけど、「夜のヤクルトレディにありがちなこと」というお題に対して、「みるみる……」という回答を出したのが人生初の大喜利の「正解」だった。いまだにmy omoshiro memoryに大切にしまってある。

Twitterで孤独に戦ってきた大喜利を振り返ってみたのだけど、いいねやRTが多かったからといって必ずしも正解ではなかった。正解じゃなかったことだけはわかる。このへんの感覚の正体をきちんと知りたい。

積読こそが完全な読書術である

現代社会はすでに「積読環境」である、としたうえで、本との付き合い方について書かれたもの。タイトルでかなり期待していたのだけど、結論から言うと近年稀に見る大ハズレだった。

「繰り返しますが」や「先に述べた通り」という前置きが多用され、同じことが言い方を変えて平均34回書かれるので、読むのにかなりのストレスがあった。繰り返さなければ本書の厚さは3分の1くらいで済んだと思う。本文中に出てくる表現を借りるなら、この本自体が「契約どおりの出版点数をクリアするために通された企画に基づいて書かれただけ」なのでは、と思ってしまった。編集の手が入らなかったのだろうか。

第一章は「他律的積読環境のなかに、自律的な積読環境を作る」という提案こそあるものの、話はここからまったく前に進まない。読まなくても問題ない章だと思う。

第二章はバイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』から引いた内容が多く、おもしろくなってはきたのだけど、それでも「じゃあバイヤールの本読めば済むな」という章だった。この章のタイトルは「積読こそが読書である」なのだけど、別にそういう話は出てこない。

第三章からようやくタイトルに応じた話になってくるのだけど、そこに至るまでに111ページかかっている。きびしい。このあたりから「Evernoteを活用しよう」みたいな小手先のテクニック的な話も出てくるのだけど、それより先に「積読こそが完全な読書術である話をせんかい」と思ってしまった。

第四章は、最近気になっていたダニエル・カールマンの『ファスト&スロー』から「ファスト思考(システム1)」「スロー思考(システム2)」というシステムを持ち出してくるのだけど、なぜそれをわざわざ持ち出したのかは不明。第一章を言葉を変えて再掲しているような章だった。

趣旨としては、内容を完璧に把握して、しかも記憶し続けられるような「完全な読書」なんてできないんだから諦めろ、「不完全な読書」の程度を決めろ、その手始めとして気になった本を積極的に手元に集めろ、積読で構わん、それこそが現代の読書術なのだという話。この一文が、200ページに伸ばして書かれている。趣旨はおもしろいと思うけれども、ストレスの方が勝った。

「不完全な読書」の精度を上げるための読書の方法もいくつか触れられているのだけど、全体的な印象としては積読の定義をずらしているだけにしか思えず、タイトルが煽りすぎだと思った。根拠が乏しいまま結論だけが繰り返される。いろいろな書籍の紹介で肉付けしようとしているのだけど骨がないまま肉がつけられているのでつらい。

必要なところを取捨選択しながら読む速読の入門にお勧めできるくらいには無駄が多く、それが皮肉にも本書が勧める「積読」の一種にも繋がっているのだけはエスプリが効いている。これは純粋な皮肉です。

極めつけは、がんばって200ページ強読んだうえで「おわりに」に書かれていたことが最悪だった。「わたしは、『人間が積読をすること』が『完全な読書』をする方法であると主張したいわけではありません」というのが最後の最後に出てくるんだけど、じゃあ「積読こそが完全な読書術である」ってタイトルつけちゃダメだろ。嘘じゃん。ひさしぶりに得るものゼロの読書体験をした。

ダルゴナコーヒーをつくる

いま話題のダルゴナコーヒーをつくった。一度でもダルゴナコーヒーをつくったことがある方は、特にあまりうまくいかなかった方は察していただけると思いますが、以降きたない文章ときたない写真が載ってます。見たくない方はここでお帰りください。

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みんなわらってくらしてる

UNDERTALE」をクリアした。名作と言われているのは知っていて、3年くらい前にSteamで買ったのだけど、PCのキーボードでプレイするのがうっとうしくて放置していた。先日Switch1,000円弱になっていたので、改めて買った。

「記憶を消してまたやりたい」という感想をよく目にするので、どれほどのものかと期待していたのだけど、はたして期待以上だった。画面の雰囲気からか「MOTHER」と並べて讃えられているのもよく見るけど、個人的にはMOTHER以上だと思う。やさしいゲームだった。

内容は、おおまかに言えば地底(underground)での物語(tale)で、地底に迷い込んでしまったニンゲンの子どもが、モンスターだらけの地底世界をくぐりぬけ、地上に戻るというストーリー。5時間程度でクリアできた。

序盤、明らかに選択を間違えてしまった出来事があったのだけれども、どうすればよかったのかわからず、最後までずっと、心に小さなトゲが刺さったような感覚があった。ゲームなんだからリセットしようと思えばできたのだけど、どうしようもなさを抱えたまま最後まで進めてよかったと思う。後悔したままクリアするゲームもめずらしいような気がする。

ストーリー全体はもちろんのこと、何気ない台詞のひとつひとつがふいに涙腺を刺激してくる。最初に訪れる町で、なんてことのないキャラクター(名前すらない)がこんな会話をしている。不覚にもこの台詞で涙腺が急激に緩んでしまった。

*みんな わらったり ギャグを
 いったりして めのまえの
 もんだいから めをそらしてる

 たんちょうな まいにち
 じんこうみつどの じょうしょう
 ひあたりの わるさ

 わたしも そうやって イヤなこと
 わすれられたら いいんだけど
 おわらいのセンスがなくて。

*ちていのせかいには いろいろと
 もんだいも あるけど それでも
 みんな わらって くらしてる。

 なんでって?

 どうせ なにもできないんだから
 もんくいっても しかたないだろ?

先の見えない毎日だけど、目の前の問題から目をそらすな、正しく怒れ、批判をやめるな、もうそういうのからも目をそらしたい。わらったりギャグをいったりして、イヤなことわすれられたらいいんだけど。わらって暮らそうとするユーモアはなくしたくないなあ……。

クッキーシーンみたいに

「クリエイション・レコーズ物語」を読みながら、ある雑誌のことを思い出していた。大学のころたまたま出会った「クッキーシーン」という音楽雑誌で、安っぽい紙に印刷されており、マニアックな音楽情報でびっしりと埋め尽くされ、限られた紙面を少しも無駄にしないという決意めいたものが感じられた。まだまだ知名度の低いアーティストの曲が洋邦問わず15曲くらい収録されたCDがおまけで付いており(いずれもフルで聴けた!)、未知のアーティストを発見するたのしさがあった。「クリエイション・レコーズ物語」を読みながらクッキーシーンのことを思い出したのは、この本がペーパーバックなのに加えて、クッキーシーンの伊藤英嗣氏が翻訳を務めていたからだ。氏が書いたマイブラの「Loveless」のライナーノーツを読んで以来、「このひとが勧めるものはきっと間違いない」と思っている。

好きが凝縮されたものを読むのはたのしい。行間どころか文字と文字の間から「好き」は漏れる。情報が全くわからず、「好き」しか伝わってこなくてもたのしい。わからなくてもおもしろい。このひとがここまで言うのであれば今度買ってみようかな、という気持ちになってくる。クッキーシーンは「このアーティスト好き!」「聴いてみて! きっと気にいると思うから!」「これが知りたいから直接訊いてみた!」でいつも埋まっていた。

かねてからできるだけ熱を持ちたくないと思いながら生きてきて、おおむね平熱で生きていけるようになってきたけれど、いま作ってみたいと思うのは熱にまみれた読み物で、でもたぶんもう熱にうかされるくらい好きになれるものも出てこないだろうし(平熱でもなにかを愛することはじゅうぶんできる)、なんで熱を失うように生きてきたんだろうという反省が、今ごろになって大きくのしかかってきている。ないものねだりなのかもしれないけど。

クリエイション・レコーズ物語

ジザメリやライド、マイブラといったシューゲイザーバンドや、あのオアシスまで輩出した伝説的なインディーズレーベル「クリエイション・レコーズ」について、インタビューを中心にまとめた本。クリエイション同様、この本も一種の伝説的な存在になっている、と思う。2003年に発売されて現在は絶版なのだけど、近所のブックオフに売られているのを奇跡的に発見、その後パラパラと読んでいたけど積読になっていた。本は手に入れるまでがいちばんたのしい。

「他の追随を許さないくらいに音楽が好き」という音楽への情熱とドラッグの相性がめちゃくちゃよい。致死量のドラッグが伝説的なレーベルを生むのであれば、バンバン推奨してもいいのではという気にもなってくる。読み進めるごとにレーベルの熱狂っぷりが加速し、みんながどんどんドラッグに溺れていき、名盤が次々に生まれてくる。生まれて初めて「to here knows when」を聴いたとき、あの輪郭のない音の洪水に圧倒されて「なんなんだこれは……」と思うことしかできなかったのだけど、それを書籍にしたらこんな感じになるのではないかという、まさに読むシューゲイザーみたいな本だった。

クリエイション・レコーズ物語

クリエイション・レコーズ物語

 

<ポスト・トゥルース>アメリカの誕生

ウェブのWIRED20163月~12月に連載されていた、2016年のアメリカ大統領選挙をリアルタイムで追った記事をまとめたもの。「トランプが勝つ」という結果を知りながら読むとおもしろかった。去年の今ごろ、選挙や多数決に関する本を買いまくって読んでいたのだけど、これもそのうちの1冊。読みかけたまま放置してあり、内容がほとんど抜けていたので、読み返したいところを中心に読んだ。

今回の新型コロナとポスト・トゥルースという概念は非常に相性がよいと思っていて(だから読み返したのだけど)、2016年のアメリカ大統領選の過程とそのフィードバックから、今ものごとを考えるうえでのヒントみたいなものがなにかしら見えないものかと思ったのだけど、「やっぱ相性いいな」という確信を強めただけだった。「彼らを鼓舞するのは理性よりも感情であり、情動である」というポスト・トゥルースは、現状をなにかのせいにしたい国民感情と相性がいい。特に、仮想敵として政府は非常に都合がよい。

確かにコロナ対応として政府が進めているものに関しては全部が全部よいと思っていないし、安倍晋三というひとが首相としてよいのかというと、個人的にはそうも思っていないのだけど、だからといって「やることなすこと全てがダメ」とも思っていない。政府を仮想敵にしたいという思いが強すぎると、よい対応に目がいかず、悪いところばかり指摘したくなるのも無理はないのだけど、「事実」に対して批判がなされるといった理性は必要だと思う。「正しい情報(事実)+適切な(理性的な)感情処理」が行われるのが理想的だと思うのだけど、最近特に「『正しい』感情+適切な(恣意的な)情報処理」が行われているのを目にしているような気がする。

結局4年経ってもポスト・トゥルースの「次」にはまだ行けていなくて、案外(いかにもWIRED的で個人的にはあまり好きな論調ではないのだけど)テクノロジーの発展を待たないと、その次に行けないのかもしれないということを考えた。そんな状況で個人が打てる手としては、インターネットを「事実」の収集に活用するにとどめて、他人の感情や情動をできるだけ見ないようにするくらいしか思いつかない。

正しさ

「正しく怒るべき」という論調が結構まかり通ってきた感じがするけど、正しさを基準に据えるのはかなり危険な気がする。自分の怒りが正しいかどうかを誰がジャッジするのか。結局は恣意的な正しさでしかないのではないか。「私の怒りは正しいものなのです!」と言われても、やっぱり俺の眼の前で殴らんでくれよと思ってしまう。正しく怒るべきと言ってるひと怖い。自分は正しいという自信があるんだろうな、と思ってしまう。

多数決を疑う

多数決ははたして本当に民主的な決め方なのか、という話。

冒頭の5ページくらいであっさりと多数決の致命的な欠点が指摘され、その代替案として「ボルダルール」というものが紹介される。これは、例えば3人の候補者がいたとして、1位に3点、2位に2点、3位に1点というように等差のポイントを付けて加点するというもの。ボルダルール以外にもいろいろな集約ルールが紹介されるが、最終的にやっぱボルダルール強いねという結論。

集約ルールの話に終始せず、前提として「自分のことは自分で決められるはずだ、というのは単なる希望の発露ではないか」「正しい判断は可能なのか」という、「選択」という行為への問いから出発しているのが面白かった。いまみんな好き勝手言ってる状況で、意見の集約ルールがそもそもあってないような感じなので、それに触れすぎるとげんなりするだけで終わりそう。結局、署名のようなわかりやすい集約が強く作用した事例もあるので、集約ルールの整備(整理)から始めるのが、事態を動かすにはよさそうな気がする。とすると、官邸にメッセージとか送るの、焼け石に水ということでもあるのか。個は弱い。